榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

不可思議な感覚世界で恋をした女――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その17)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(104)

【読書の森 2024年3月1日号】 あなたの人生が最高に輝く時(104)

●『尾崎翠全集』(尾崎翠著、稲垣真美編、創樹社)

●『尾崎翠の感覚世界』(加藤幸子著、創樹社)

●『尾崎翠集成』(尾崎翠著、中野翠編、ちくま文庫)

●『断髪のモダンガール――42人の大正快女伝』(森まゆみ著、文春文庫)所収の「尾崎翠――シスターフッドの感覚世界

不思議な小説

尾崎翠(みどり)(1896~1971)の「よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあひだに私はひとつの恋をしたやうである」と始まる『第七官界彷徨』は、何とも不思議な小説だ。

「人間の第七官にひびくような詩」を書きたいと願っている赤いちぢれ毛の娘と、精神科医の長兄、肥料を研究している学生の次兄、それに音楽受験生の従兄弟の4人が、廃屋の一つ屋根の下で暮らす日常が描かれているが、苔が恋愛をしたり、部屋でこやしを調合して煮る臭いが漂ってきたり、名状しがたい感覚の世界が広がっている。現実離れしていながら、妙に懐かしい世界なのだ。

波瀾の生涯

翠は、どういう生涯を送ったのか。明治29(1896)年、鳥取生まれ。父は小学校校長、長兄は後に海軍中佐、次兄は僧侶、東大卒の三兄は肥料会社重役となる。鳥取高女時代は理科、数学、国語、漢文、英語、音楽の成績優秀な生徒であった。17歳で卒業後、小学校の代用教員として勤めながら、文学に親しむ。男っぽいが、親切な性格であった。

22歳で日本女子大国文科に入学するが、文芸誌に創作を発表したことが大学当局から問題視されたため、自主退学し、文学の勉強に専念。34歳の時、『第七官界彷徨』を発表。35歳の時、文学仲間で10年下の高橋丈雄との結婚を決意し、高橋の家で同棲を始めるが、翠の強度のノイローゼが悪化したため、10日余りで自分の家に戻る。この直後、長兄が翠を強制的に鳥取に連れ戻した。38歳以降は、東京の文学上の友人との交信も絶え、戦中・戦後にかけては生死のほども不明となる。しかし、翠は死んではいなかった。郷里でひっそりと暮らし続け、74歳で逝去。

親友にとっての翠

林芙美子の『落合町山川記』には、翠のことが親しみを込めて随所に書かれている。「此堰の見える落合の窪地に越して来たのは、尾崎翠さんといふ非常にいい小説を書く女友達が、『ずつと前、私の居た家が空いてゐるから来ませんか』と此様に誘つてくれた事に原因してゐた」。「私は障子を張るのが下手なので、十六枚の障子を全部尾崎女史にまかせてしまつて、私は大きな声で、自分の作品を尾崎女史に読んで聞いて貰つたのを覚えてゐる。尾崎さんは鳥取の産で、海国的な寂しい声を出す人であつた。私より十年もの先輩で、三輪の家から目と鼻のところに、草原の見える二階を借りてつつましく一人で住んでゐた。この尾崎女史は、誰よりも早く私の書くものを愛してくれて、私の詩などを時々暗誦してくれては、心を熱くしてくれたものであつた」。

翠の紹介で移り住んだこの落合の家で、芙美子は『放浪記』出版の通知を受け取り、たちまち売れっ子作家になっていった。そして、ちょうどその頃、翠は『第七官界彷徨』に取りかかっていたのである。

恋人にとっての翠

恋人であった高橋丈雄が、後年、「恋びとなるもの」という一文で、翠の思い出を語っている。「彼女は日頃、自分の容貌を醜悪視して、『あたしの顔って、ベェトーベンのデスマスクにそっくりだって友だちに云われるのよ』と、笑ってみせたりしていた。その夜、僕の家の蚊帳の中で、彼女は童女に変身し、喜々として、幼児の頃からの自叙伝などを語った。いったい僕のどこに惚れたんだいと聞くと、一目惚れよ、古風でしょう、あなたって、灌木の中に、一本高く聳え立つ喬木のような人ですもの、と詩的表現を以て答えた。夜更けて、話がとぎれてしまった。このとき、彼女はやっとの思いで囁いた。襲いかかってくる人、好き」。

甥にとっての翠

甥の小林喬樹が、「伯母尾崎翠の思い出」の中で、「伯母は終生未婚で自分に子供の無かったせいもあり我々甥や姪を我子のように大変可愛がってくれた。伯母は湿っぽさの無いからりとした性格でユーモアに富んでおり、豪放闊達かつ磊落な男っぽいとも言える人であった。所謂通俗的な意味での女性的な細やかさは無く、また男っぽいと言っても図太さとか逞しさは無く、非常に純粋であるが反面或る脆さというか弱さを持った人でもあった。それにしてもあまりに物欲の無い人だった」と述懐している。

私にとっての翠

翠を熱烈に敬慕する加藤幸子が、「彼女の作品にみなぎる透明な明るさ、優しい文体とすぐれたレトリック、そして異常なほどに深く人間心理を貫いてみせる知性が自分には及びもつかぬ天才としか思われなかった」と、翠讃歌を高らかに歌い上げている。

翠は、ハンス・クリスチャン・アンデルセン原作、森鴎外訳の『即興詩人』に登場する少女・ララが巡り合ったような恋に憧れていたのではないか、私は勝手にこう想像している。翠は、30歳の時、「少女の友」5月号に『少女(おとめ)ララよ』を載せているのだ。盲目の美少女・ララと即興詩人・アントニオの清らかな愛がテーマである。