いつかやって来る「死」について、おたおたしながら考える――「死」と「生」に真っ正面から取り組んだ一冊――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その36)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(123)】
●『死と生』(佐伯啓思著、新潮新書)
【死は絶対的】
『死と生』(佐伯啓思著、新潮新書)は、「死」という問題に真っ正面から取り組んでいるところに好感が持てる。
「実際、『生』の中身は人によって様々でしょう。幸福も様々ですし、生き方も様々な可能性をもつ。人の知恵や努力によって変えることもできます。それらはすべて相対的なのです。偶発的でもある。しかし、『死』という事実だけは、きわめて普遍的で、絶対的で、必然的です。『死に方』はいろいろあっても、『死』という事実(状態)は、男女、貴賤、人種、美醜、善悪をまったく問わず、まったく同じであって、人智でも努力でも祈願でもどうにもなりません。まさしく『絶対的』なのです」。
「『死』はもちろん幻影でもなんでもなく、まぎれもなく存在する、ゆるぎない事実であり、間違いなくすべての人に対して平等に降りかかってくる。つまり、人間の側の事情を一切超えた圧倒的な『力』のような何かなのです。終末の迎え方、つまり『死に方』は、知恵や努力やカネやコネで人為的に操作できますが、『死』そのものは、まったく人間を超えたものなのです。人は『死』を前にしてはまったく無力であり、ただただ頭をたれる以外にない」。
「われわれの生の背後には、目には見えないけれども常に死が張り付いており、死の上に張られた薄い膜の上に日常生活が現成している、ということです」。
【死後は無】
「私には、どうも死後世界は信じられません。死んでしまえばすべて『無』としか思いようがないのです。いや、正確にいえば、よくわかりません。論じても仕方のない事項だと思われるのです」。死後は「無」という考え方に、私は賛成である。
2018年1月21日に自死した西部邁について書かれている。「西部さんは、しばしば、『死んだらおしまいだよ。後には何もないんだ』とおっしゃっていました。むろん、死後世界や来世や霊魂などというものはいっさい認められませんでした。だから、そんなものについて話してもしょうがない、ということです。このような死生観があるからこそ、充実した生の極限で自ら死へと飛躍されたわけです。つまり、何もない『無』へと自らを放下されたわけです。この死生観は私にもよくわかる。私もほとんど同じ気持ちなのです。より正確に、少し穏当にいえば、死後世界に関してはいっさいわからない、ということです。それは、死後世界を『無記』として語らなかった釈尊の立場でもあった」。西部の政治思想や自死には賛成しかねるが、その死生観は私と同じだ。ただ、だから考えてもしょうがない、話してもしょうがないという箇所には、賛同できない。
こう言いながら、著者は仏教的な精神のありように関心を抱いており、本書でもいろいろな考察が重ねられている。この考え方は、私とは異なっている。
【死と生】
「人間は死すべき存在である、という命題はまた、人間は死を意識しつつ死へ向かって生きる、ということを意味し、これはまさに生き方を論じることでもあるのです。『死』と『生』は対の問題です。にもかかわらず、往々にして、『死』はただ『生』の切断であり、『生』を終わらせるものだ、と考えられがちです。そうではなく、『死』、正確には『死への意識』が『生』を支え充実させることもあるのです」。本書の最後の最後に至って、著者と意見が一致して、ホッとしている。