藤原秀衡の奥州国家独立維持の基本戦略とは――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その284)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(371)】
●『平泉――奥州藤原四代』(高橋富雄著、教育者歴史新書)
歴史の転換期には個性豊かな人物が輩出する。日本の古代から中世への扉を押し開いた源頼朝はその代表者と言えようが、その周辺に目を凝らすと、不思議な光を発する人物が浮かび上がってくる。
そういう一人が、頼朝を恐れさせた北方の王者・藤原秀衡である。奥州平泉に本拠を定めた藤原清衡、その子・基衡、その子・秀衡の奥州藤原氏3代は実質的な独立国家・奥州国家を築き上げる。有名な中尊寺金色堂は奥州国家の富と権力の象徴である。
天下の趨勢を睨んで秀衡が決定した基本方針は、断固たる態度で奥州国家の光栄ある独立を守り抜くことであった。外交面の等距離外交、軍事面の専守防衛がその柱であった。ところが、兄・頼朝に追われた失意の源義経が、かつて自分を育ててくれた秀衡を頼って落ち延びてきたことから、俄然、情勢が緊迫してくる。
木曽義仲を滅ぼし、平家を滅ぼした頼朝の次の狙いが奥州国家の独立否定にあり、義経問題が口実に過ぎないことは明らかであった。頼朝の本心を見抜いた秀衡は軍事の天才・義経を迎え入れ、彼我の軍事力の均衡を図ろうと考えたのである。しかし、この構想は秀衡の死とともに崩れ去り、奥州国家も100年に亘る栄光の幕を閉じる。
なお、1950年に行われた秀衡らのミイラの学術調査に立ち会った大佛次郎は、秀衡との対面について、「私は、義経の保護者だった人の顔を見まもっていた。想像を駆使して、在りし日の姿を見ようと努めていたのである。高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭を、はっきりと見せている。下ぶくれの大きなマスクである。北方の王者にふさわしい威厳のある顔立と称してはばからない」と書き記している。また、この調査により、秀衡らはアイヌでなく、「日本人」との結論が得られている。
『平泉――奥州藤原四代』(高橋富雄著、教育社歴史新書)は、奥州藤原氏研究の第一人者の手に成るだけあって、この分野の歴史を知るには最適の本と言えよう。