初代・藤原清衡に見る奥州藤原氏の「仏教立国」への歩み・・・【続・独りよがりの読書論(26)】
奥州藤原氏
私は奥州藤原氏が好きだ。歴史にifが許されないことは重々承知しているが、藤原秀衡の「源義経を主君として仕えよ」という遺言を息子の泰衡が守っていれば、藤原清衡、基衡、秀衡の三代が99年かけて築いた事実上の「奥州王国」があのように呆気なく崩壊することはなかっただろう。藤原氏は鎌倉の源頼朝と戦うのに十分な軍事力・財政力を擁しており、義経は軍事の天才だったのだから。この事例は、組織にとってリーダーがいかに重要かを雄弁に物語っている。
『藤原清衡――平泉に浄土を創った男の世界戦略』(入間田宣夫著、ホーム社)は、「奥州王国」の初代・清衡の考え方と行動を論じた書であるが、高橋富雄の『平泉――奥州藤原四代』(教育社、1978年)、『平泉の世紀 藤原清衡』(清水書院、1984年)以来、久々の奥州藤原氏に関する収穫と言えるだろう。
「平泉藤原氏初代の清衡がたどった人生は、波乱万丈・艱難辛苦、そのものであった。・・・前九年合戦から後三年合戦へと続く戦乱のなかで、清衡その人に関しても、父親が斬首されたばかりか、弟に妻子を殺害され、みずからは弟を死に追いやる。さらには、後三年合戦を勝ち抜いて以後、奥羽の第一人者としての地位を固める過程においても、死に至らしめた人びとは数えきれない。清衡の手は血にまみれていた。さらには、全身に返り血を浴びていた。だからこそ、そのような殺しあいの連鎖を断ち切りたい、すなわち、戦乱の時代におわりを告げたいとする決心が、人なみはずれて強固なものになったのではあるまいか」。
仏教立国
「けれども、そのような決心ばかりでは、国づくりのためのグランド・デザインを描き出すことはできない。これまでのように中央国家の思惑によって押しつけられたしきたりに従っていたのではいけない。・・・そのような模索のなかで採用されることになったのが、仏教のモデルであった。・・・その仏教モデルに従ったグランド・デザインによる国づくりを、すなわち現世における『仏国土(ぶっこくど)』(浄土)の建設を推し進めるためには、端的にいえば『仏教立国』の路線を邁進するためには、さまざまな試行錯誤が避けられない。なにしろ、日本ではじめての試みである」。
「(京都の仏教文化を)突き抜けた本格的な仏教文化を構築することなくして、本格的な『仏国土』(浄土)の建設を望むことはできない。そのためには、東アジアのグローバル・スタンダードに、直接的にアクセスするしかない。そのためには、国内外の情報に精通したブレーン(知識人)を京都方面から招き寄せるしかない」。
「大胆かつ革新的な国づくりの事業展開であった。そののち、鎌倉幕府をはじめとする武家政権によって、その根本精神が継承されたことに想いを馳せるならば、なおさらに大胆かつ革新的といわなければならない」。
「それにつけても、そのような大胆かつ革新的な国づくりの事業に踏み出すことを可能にさせた清衡のメンタリティーは、いかにして育まれることになったのか。また、京都側による差別的な『蝦夷(えみし)』呼ばわりに屈することなく、みずからの創意工夫によって新しい国づくりに挑戦する勇気は、いかにして生み出されることになったのか。さらには、京都の向こう側に、東アジア世界を見すえるような、その広やかな眼差しは、その卓越した国際感覚は、いかにして形成されることになったのか」。本書では、これらの設問に答えるべく、清衡の人生が丹念に辿られている。
ハイブリッドな新人類
「中央貴族と地方豪族、その二種類の血液を受け継いだハイブリッドな新人類として、清衡が生まれ育ったことには間違いがない。それによって、清衡は、中央一辺倒ではない、さればといって、地方べったり、井の中の蛙でもない、自由闊達な広い視野で、世界を見すえることができる、人並みはずれたパワーに恵まれることになった。そのような生来のパワーが具えられていなかったならば、後半生における仏教立国の大事業の推進は、京都側との卓越した外交交渉の展開は、さらには東アジアのグローバル・スタンダードの取り入れは、絶対に不可能だったのに違いない」。
このハイブリッドという指摘は、清衡らの遺体(ミイラ)の学術調査からも裏付けられている。「清衡をふくむ藤原三代に顔立ちの特徴は、『現代の京都人にもっとも近く、時代の近い鎌倉人や近世のアイヌとは遠く、さらに居住地を共有する東北人とも異なっていることである。この結果、藤原氏がアイヌであることはほぼ完全に否定される。また、藤原氏が中世の人でありながら、当時東日本に住んでいた人たちとも異なっていたことを示す。さらに現代の東北人とも違うことは、藤原氏が元来東北土着の家ではなかったことを暗示しているように思える』。『強いていえば、和人系と東北土着の『エミシ』系(安倍・清原)との混血家系だが、アイヌとは異なる』(埴原和郎)などとされている。これは、興味深い。清衡が、京都貴族と地方豪族の『混血』によって生み出されたハイブリッドな新人類であったことは。人類学の成果からしても明らかなり。『東夷の遠酋』『俘囚の上頭』のレッテルの偽りなることについても、また然りといわなければならない」。
本著作からは、著者の清衡に対する熱い思いがひしひしと伝わってくる。
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