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間宮林蔵はシーボルト事件の密告者だったのか・・・【続・独りよがりの読書論(47)】

【amazon 『間宮林蔵』 カスタマーレビュー 2019年2月28日】 続・独りよがりの読書論(47)

吉村昭が、間宮海峡を発見した探検家であり、徳川幕府の隠密でもあった間宮林蔵を主人公に据えた歴史小説『間宮林蔵』(吉村昭著、講談社文庫、新装版)を読んで、3つのことがはっきりした。

第1は、林蔵はシーボルト事件の密告者ではなかったこと。

「異国人から贈物をうける場合は、幕府にとどけ出るのが定めになっていて、それに従ったまでであった。そのことが、作左衛門とシーボルトとの関係に幕府が疑いの目を向けるきっかけの一つになったかも知れないが、事件が発覚したのは大暴風雨で坐洲したオランダ船コルネリウス・ハウトマン号の積荷の中から、シーボルトが国外持出しをはかった禁制品が発見されたためであった。林蔵は、事件に全く無関係とは言えぬが、密告などしたおぼえはなかった」。

「西洋の知識に深い関心を持つ者たちは、林蔵に激しい憎しみをいだいているようだった。かれらは、高橋作左衛門がシ―ボルトに地図の複製その他を贈ったのは、それと交換に西洋の文献その他を入手したかったからで、いわば学者としての西洋の知識に対する強い執着心によるものだ、と解釈していた。そのような作左衛門の意図をうちくだき、さらに死におとし入れたことは許しがたい行為だ、と考えているようだった。林蔵は、憤りを感じた。シーボルトから作左衛門を通して送られてきた小包を開くことなく勘定奉行にとどけたのは、国法にしたがった当然の行為で、密告などしたおぼえはない。非は作左衛門にあって、捕えられ獄死したのも自然の成行きだ、と思った」。

「天保五年を迎え、林蔵は五十五歳になった。シーボルト事件の密告者であるという噂は、月日の経過とともに消えるかと思ったが、逆に疑いのない事実として定着していた。洋学をまなぶ者たちの林蔵に対する憎悪と恐怖は激しく、林蔵の姿をみると顔色を変え、あわただしく立ち去る。家の近所の者たちも、密告者であるとともに隠密であることを知り、おびえたような眼を向けてくる。林蔵は、そうした空気がわずらわしく、転居を繰返していた」。

フランツ・フォン・シーボルトは、林蔵のことをどう見ていたのか。「1832(天保3)年、シーボルトは(『ニッポン』の)第一巻を出版した。その中には、間宮林蔵が樺太、東韃靼へ旅をしたことも紹介されていた。シーボルトは、林蔵が事件の密告者であるという噂を信じ、『日本政府側からわれわれに対する審問の契機を作った人物』として憎しみをいだいていたが、地理学の上で偉大な功績をあげたことを認め賞讃していた。林蔵については『専門の測量技師で、スケッチにもすぐれ、地点測定のために必要な天文学的知識も持っていた』として、樺太が東韃靼の半島と信じられているが、林蔵はその調査の旅で樺太が島であり、東韃靼との間に海峡があることを発見した世界最初の人物であると記した。さらにシーボルトは、林蔵の海峡発見を証明するために海峡とアムール河の河口をえがいた林蔵の地図も挿入し、その海峡をマミヤの瀬戸1808(間宮海峡)と名づけていた。・・・シーボルトの『ニッポン』には、日本から持出された林蔵の『東韃地方紀行』なども収録され、林蔵の名は、シーボルトによって世界的に知られるようになった。また、各国語に翻訳されたゴロブニンの『日本幽囚記』にも林蔵についての記述があり、かれのことはヨーロッパ人の間にひろがった」。

第2は、林蔵と、その師・伊能忠敬は深い信頼関係で結ばれていたこと。

「村上島之允の弟子として測地術を修業し、島之允の供をして各地を測量し、蝦夷(北海道)に入り、さらに樺太北部、東韃靼の調査をおこない、地図も作成して幕府に提出した。それによって、役職も昇進したが、ただ一つ心もとなく思っているのは測地術であった。林蔵の測地術は、まだ多くのものを学ばねばならぬ初歩の域にあった。調役下役格として、一層その術を高めねばならぬ、と思った。・・・忠敬は、日本で最も高度な測量法を身につけていて、緯度、経度の計測も十分にこなしている。それを自分が理解できるかどうかはわからなかったが、正確な地図を作成するために、忠敬の教えをうけたかった。・・・林蔵は、手をつき、懇願した。『お安い御用です。間宮殿のような人物は、まことに得がたい。私がお力になれれば幸いです。善は急げ、早速お教えしよう』。忠敬は、明るい眼をして言った」。

「忠敬は、林蔵を深く信頼し、家庭のことも相談するようになっていた」。

「(肺結核で病臥している忠敬は)『いかがであろう。家も広いので、この家に同居しては下さらぬか。貴殿が身辺にいてくれると心強い』と、すがるような眼で言った。『御好意ありがたく存じます。一人身でおります故、そのようにしていただけますと、助かります』。林蔵は、頭をさげた。翌日、林蔵は、手廻りの物を持ってくると、忠敬の家に同居した。・・・七十三歳という高齢で病み、しかも家庭的に悲運な忠敬に、林蔵は同情した。・・・忠敬を喜ばせたのは、林蔵が、蝦夷のほとんど全海岸線を実測し、その原図が近々のうちにかれ宛にとどくことであった。日本全国の地図を作成しようとしている忠敬にとって、蝦夷の原図を得ることは悲願を達成することを意味していた。・・・やがて、林蔵が蝦夷の海岸線を測量した原図が到着、忠敬は、それが精確なものであることを認め、門人たちの動きはさらに活発になった」。

「林蔵は、悲しみにひたりながらも忠敬の埋葬とその後の処理にあたった。・・・林蔵は、忠敬の全国地図作成に、自分が測量した蝦夷の海岸線の原図が貢献したことを喜んでいた。が、かれは、蝦夷図を完璧なものにするためには、内陸部の測量もおこなわねばならぬ、と思った」。

第3は、小説を書くための吉村の史料渉猟の努力が並大抵でないこと。

「北海道行政資料課へ行って資料閲覧をさせていただいたが、その折り、驚くほどの厳正さで林蔵と林蔵をとりまく人物たちの史料蒐集をしている谷澤尚一氏という北方史研究者がおられることを耳にした。・・・帰京後、私は、谷澤氏のお宅にうかがい、林蔵についての膨大な資料を見せていただいた。氏の史料に対する態度は一貫していて、あくまでも原史料に眼を通し、しかもそれらについても正確と考えられるものだけを採用する。厳正ということに、すべてを傾注している。私は、その後も氏のお宅にうかがい、氏も私の家に足を運んで下さった。氏の口にする言葉の端々に、歴史に対する鋭い、そして厳しい姿勢を感じた。私の『間宮林蔵』は、氏の提供して下さった史料を基礎に成ったものである」。

吉村の熱心な史料探求が垣間見える「あとがき」であるが、その史料入手の経緯を正直に語る吉村の姿勢には好感を覚える。

私事に亘るが、この谷澤尚一という北方史研究者は、私の中学、高校時代の同級生・谷沢紀の父であり、谷沢の家に遊びに行った時、言葉を交わしたことがある。