榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

シーボルトの日本人妻・お滝、その娘・お稲、お稲の娘・お高の数奇な運命・・・【情熱の本箱(159)】

【ほんばこや 2016年11月12日号】 情熱の本箱(159)

吉村昭の歴史小説は、「小説」部分は僅かで、ほとんどを「歴史」部分が占めていると言ったら、泉下の吉村から「俺を小説家と認めないのか」と抗議されるかもしれない。換言すれば、吉村の作品の歴史的内容は信を置けるということだ。彼がこつこつと歴史を遡り、丹念に史料を渉猟したことはよく知られている。

ふぉん・しいほるとの娘』(吉村昭著、新潮文庫、上・下巻)から、期待を超える多くの歴史的事実を教えられた。

教えられたことの第1は、フランツ・フォン・シーボルトは日本に赴くに当たり、オランダ政府から日本の実情を幅広く調査せよとの密命を与えられていたこと。「オランダ政府は、日本の全容を把握するために政治、宗教、産業、国民性、風俗、言語、動物、植物、文化、地質、地理などあらゆる分野の実態を蒐集することを決意した。そして、それにふさわしい人物を物色した結果、シーボルトがえらばれたのである。シ―ボルトは、医師ではあるが好奇心がきわめて旺盛で、その関心は多岐にわたっていた。27歳という若さも魅力で、積極的に資料蒐集をおこなうことが期待された」。

その第2は、シーボルトは日本に先進的な西洋医学を初めとするさまざまな知識をもたらした、日本にとっての功労者であること。「シーボルトは、週に一度出島の外に出て病人の診察をおこなうようになった。その度に美馬順三たちが必ず同行したが、町人たちにまじって長崎に遊学している医師たちも真剣な表情をしてついてきて、シ―ボルトの診察を見学していた。シーボルトとそれに師事する美馬らには、熱気のようなものがみなぎっていた」。「シーボルトは、病人を診察して内科の治療にすぐれた手腕を発揮したが、最新の手術器具を駆使して巧妙な手術もおこない、美馬順三らを驚嘆させた」。

第3は、スパイ罪に問われ日本を追われたシーボルトが32年後に再来日した時、彼が有していた知識は、もはや時代遅れとなっていたこと。「シーボルトは、欧米随一の日本通として知られていたが、30年という歳月の流れの間に、日本の国内事情もそれをとりまく国際情勢もいちじるしく変化し、かれの建言はすでに時代おくれになっていたのである」。「かれら(江戸の代表的学者たち)は、シーボルトとの30年来の再会を喜び、医学、物理学等について質問し、意見を乞うた。シーボルトは、伊東らの質問に頭をかしげることが多く、質問者もその答に失望することがしばしばだった。伊東たちは、シーボルトが国外追放されてから30年の間に、西欧の最新知識を熱心に吸収し、自らの独創もくわえて、西洋の学者に比肩する知識を得ていた。そうしたかれらの前で、学術、殊に医学から遠くはなれたシーボルトの知識は初歩的なものにすぎなくなっていた。伊東たちは、シーボルトがすでに過去の学者であることに気づいた」。

第4は、シーボルトの現地妻第1号のお滝は、17歳の遊女であったこと。長崎の丸山遊廓のオランダ人専用の其扇(そのおおぎ)という源氏名の遊女であった。「其扇の美しさは、商館員の間でも評判であった」。「おそらくかれ(シーボルト)は、初めて日本の女に接することに異常な興奮をしめしたのだろうが、其扇は、自分の美しい容貌と肌理こまかい体にシーボルトが激しい情欲をたぎらせたのだと思いたかった」。

第5は、シーボルトは日本人妻というか現地妻というか、そういう女性たちに執心したこと。再来日した彼は、若い現地妻に夢中になり、お滝に対する関心は失せていた。「お稲は、体がふるえるのを意識した。17歳の<しお>に、自分が無視されているのを感じた。<しお>は父シーボルトの愛人であるという立場から、シーボルトの娘である自分を軽んじ、(自分が雇い入れた)<とみ>を解雇した」。「父は、娘である自分の訴えをしりぞけ召使の<しお>をかばっている。父は、自分よりも<しお>を愛しているというのか」。「お稲のシーボルトに対する気持は、急に冷えた。<しお>についで<えい>に夜伽をさせるシーボルトに、性欲の強い男を感じるだけで父としての思慕はうすらいでいた。自分には関係のないことだ、と、お稲は胸の中でつぶやいていた」。

第6は、シーボルトとお滝との間の娘・お稲は、シーボルトが罪を得て故国に帰国後、彼の高弟・石井宗謙に強姦されて、タダ(後に、お高、高子)を産むに至ったこと。その事件が起こったのは、宗謙について産科医の修業中であったお稲が25歳、宗謙が56歳の時のことであった。しかも、お稲は処女だったのである。「宗謙は、妻のシゲ以外に<おむろ>、<おゆき>という2人の妾をかこっていながら、それでも飽き足りずに自分の体をもおかした。妾と同じように自分を見ている宗謙が、許せなかった。屈辱感と羞恥で、身がふるえた。宗謙は、シーボルトを師として尊敬していると口癖のように言い、師の恩を忘れられぬ、とも言っている。そうしたことを口にしている宗謙が、師の娘である自分をなぜ凌辱したのか。それは、師の恩にそむく行為ではないか」。

第7は、お稲の娘・お高が寡婦となった27歳の時、医師の片岡重明に強引に犯され、周三(亡夫を偲んで同じ名をつけた)を産むに至ったこと。「(お高からの)手紙には、『汽船が湊川あたりに来た頃と思いますが、片桐に執拗に口説かれ、抵抗することもできず身をまかせてしまいました』といった趣旨のことが書かれていた。片桐は、(亡夫の)三瀬が存命中からひそかに高子(お高)に想いを寄せ、その没後長崎に来たのも高子に会いたい一心からであったという。さらに手紙には、『子をみごもりました』とも記されていた。片桐は高子との結婚を強く望んでいるが、高子は片桐を憎み、その気はないと記されていた」。

シーボルトを巡り、このような人間臭いドラマが繰り広げられていたとは、歴史教科書を読んだだけでは到底知ることはできなかっただろう。