榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

外科医は、どう考え、何に悩み、どう医療に取り組んでいるのか・・・【MRのための読書論(56)】

【Monthlyミクス 2010年8月号】 MRのための読者論(56)

MRの参考書

主人公・当麻(とうま)鉄彦の医師としての成長を描いた『孤高のメス 外科医当麻鉄彦』(大鐘稔彦著、幻冬舎文庫、全6巻)も面白いが、MR経験の浅いMRには敢えて続編の『孤高のメス 神の手にはあらず』(大鐘稔彦著、幻冬舎文庫、全4巻)を薦めたい。

その理由は3つある。第1に、外科医が現実にどういう生活を送っているかが、よく分かる。外部からはなかなか窺い知ることができないドクターの考え方や悩みに触れることができる。第2に、難度の高い外科手術がどのように行われるのかが、あたかも読者自身が手術場に潜入したかのように、よく分かる。この第1と第2は、当然と言えば当然かもしれない。著者・大鐘稔彦が、医師はこうあるべきという明確なヴィジョンを持った優秀な外科医で、当麻は著者の分身だからである。手術場面が細部に亘るまでリアルなのも、執刀者としての豊富な経験故である。第3に、ドクターの世界の師弟関係、信頼関係、ライヴァル関係、切磋琢磨、派閥争い、病院の興隆、没落、愛する人との出会い、別れ――が生き生きと描かれているので、絵空事でない医療ドラマ、人生ドラマとしても十分に楽しめる作品に仕上がっている。

外科医の生活

当麻の日々は、このようなものである。「信じられない数の患者が外来に詰めかけ、そこから多くの入院患者や手術患者が出た。午前中も混むが、6時から8時までの夜間診療帯にも患者は殺到した。その間、救急車も頻繁に出入りし、手術中の当麻にどうしたものかと相談が持ちかけられることもしばしばだった」。

手術の実際

41歳の女性患者は他院(大学病院)で卵巣がんと診断され、子宮も一緒に摘出術を受けたが、半年後に再発が発見され、再手術を受けた。しかし、完全には取り切れなかったようで、外来で抗癌剤治療を受けていたが、再び不正出血を見るようになり、もうこれ以上、打つ手はないと言われたという。当麻が膣鏡(クスコ)で診察すると、普通ならピンク色の子宮頚部が見えるはずの場所に顔をのぞかせていたのは、取り残され、増大した、ザクロのように真っ赤な口を開いたグロテスクな腫瘍であった。しかも、宿主の骨盤底(ダグラス)に爪を食い込ませている。最早、手術の対象にはならないというのが同僚の婦人科医の意見だ。ところが、当麻は「私としては、一度は拝見した以上、そして、幾許(いくばく)かの可能性を見出した以上、このまま奥さんをホスピスへ行かせては、外科医として一生悔いが残りそうです。いえ、きっと残るでしょう」、「他に転移巣は見られませんから手術の意義は十分にあると思います」と、この直腸と膀胱の一部にがっちり食い込んでいる鶏卵大の腫瘤(チューマー)の手術(オペ)に立ち向かうのである。

午後1時30分、当麻のメスが患者の臍上部から恥骨上部まで走った。脂肪層を電メスで一直線に切開すると筋膜に達し、やがて腹膜が現れる。手際よく、右手の指と鋏(クーパー)を阿吽(あうん)の呼吸で使い分けて腹膜と腸管の癒着を剥がし、腸管を腹腔内へ落としていく。この癒着剥離術の遅速、巧拙で、その執刀医の力量を判定することができるといわれている。開創器がかかり、小腸が上方に押しやられる。当麻は腫瘤を左右の手で挟み込んで触診する。S状結腸を切断する。その直腸側の腸管を持ち上げながら骨盤壁から剥離を進めると、卵巣がんも骨盤壁から遊離されてくる。次いで、癌腫を膀胱壁から剥がす。癌腫から1cm離した正常組織にクランプ(遮断)用の鉗子をかけ、電メスを走らせて癌腫を膀胱壁から切離する。当麻はここで癌腫を含めて直腸を左手に捉える。この手は、癌腫を一切切り取るまで、約1時間、びくとも動かない。こうして、患者の卵巣がんは直腸と膀胱および膣壁の一部とともに根こそぎ除かれたのである。膣の断端は閉ざされ、直腸はS状結腸と自動吻合器で縫合された。所要時間は4時間、出血量は600ccにとどまり、輸血する必要はなかった。

現に、こういう素晴らしい外科医が存在していることに感謝したくなる。