君は、子供のために、ここまで闘えるか・・・【MRのための読書論(58)】
実話の迫力
製薬業界への先見性に満ちた鋭い提言で知られる井上良一氏から強く薦められたのが、『小さな命が呼ぶとき』(ジータ・アナンド著、戸田裕之訳、新潮文庫、上・下巻)である。
この作品には多くの魅力があるが、MRの視点に立った場合、3つに絞ることができる。その1は、今、流行りのお涙頂戴の作り話ではなく、正真正銘の実話であること。従って、著名な製薬企業が実名で登場すること。その2は、患者数が少ない難病の治療薬の研究・開発のプロセスが詳細に綴られていること。その3は、新薬開発競争を繰り広げる製薬企業、そして、バイオテクノロジーのヴェンチャー企業に資金を提供するヴェンチャー・キャピタル(投資ファンド)の経済的な側面が赤裸々に描き出されていること。
父親の果敢な挑戦
ノートルダム大学のロウ・スクールとハーヴァード大学のビジネス・スクールで学んだブリストル・マイヤーズ・スクイブの31歳の市場調査担当取締役、ジョン・クラウリー。その3人の子のうちの2人――1歳の長女と、生後間もない次男――が糖原病Ⅱ型(ポンペ病)と診断される。身体は糖分をグリコーゲン(糖原)という形で蓄え、エネルギー源とするときはグリコーゲンを分解してグルコースという形で使用する。このグリコーゲンを分解する酵素、酸性αグルコシダーゼが先天的に欠損している小児、この酵素の生産が極端に少ない小児に発症するのが、糖原病Ⅱ型である。患者はグリコーゲンを分解できないため、それがライソゾーム内に蓄積されて重篤な筋力低下を引き起こし、死に至る。
ジョンは医学や化学の分野では素人であるにも拘わらず、この疾患の治療薬を自ら開発し、愛する子供たちの命を救おうと決意する。それは、難病との闘いであると同時に、死を宿命づけられた子供たちに残された時間との闘いでもあった。大手製薬企業の取締役というポストをなげうち、妻と力を合わせて資金を集め、糖原病Ⅱ型治療薬の開発だけが目的のノヴァザイムというヴェンチャー企業を立ち上げる。必死に開発に取り組むが、資金調達が難しくなったため、糖原病Ⅱ型治療薬開発上のライヴァル企業であり、世界で最も成功しているバイオテクノロジー企業であるジェンザイムにノヴァザイムを売り、自身はジェンザイムの上級副社長兼糖原病Ⅱ型治療薬開発責任者に就任して、治療薬の開発を急ごうとする。このジョンの執念と実行力には本当に驚かされるが、それだけにさまざまな衝突が生じてくる。治療薬の臨床試験を受けたいと熱望する患者家族が多い中で、企業の幹部だからといって自分の子供たちを優先させることが許されるのか、という利益相反の問題。ジェンザイム内の複数の候補薬の中で、どれに優先権を与え、どの開発を中止するのか、という開発担当者グループ間の対立の問題。車椅子に閉じ込められ、筋力低下による呼吸困難を助けるために喉から伸びたチューブで、電子レンジほどの大きさのヴェンチレーターに繋がれている子供たちの看病・介護で疲れ果てた妻との衝突から、一時は崩壊寸前までいった家庭生活の危機などだ。
私たちは、そこに、出世第一主義のエリートではなく、自分の子供たちを愛し、自分の豊かな才能をたった一つのゴール――子供たちにとって恐るべき疾患の治療法を見つけること――を目指すことに全力を傾注している、一人の父親を見出すのである。「私たちの人間としての真価は、辛いときにそれにどう対応するかで決まる」という著者の言葉が、重く心に響いてくる。
成人に突然、襲いかかるALS
小児の糖原病Ⅱ型とは別に、働き盛りの成人に好発し、重篤な筋肉の萎縮と筋力低下から呼吸困難を来し、死に至らしめる難病がある。筋萎縮性側索硬化症(ALS)という神経変性疾患で、患者としてはルー・ゲーリッグ、スティーヴン・ホーキング、徳田虎雄、篠沢秀夫らが知られている。一時、妙にこの疾患が気になり、文献や書籍(『生きる力――神経難病ALS患者たちからのメッセージ』『照る日かげる日――ALS患者たちの記録』など)を渉猟したことを、今回、『小さな命が呼ぶとき』を読んだことで、思い出してしまった。
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