99%の絶望、1%の希望・・・【MRのための読書論(61)】
井上ひさしが目指したもの
何ということだろう。これまで井上ひさしの本を何冊も読んできたというのに、井上ひさしという作家については、私は何も知らなかったのだ。そのことを教えてくれたのが、『井上ひさし 希望としての笑い』(高橋敏夫著、角川SSC新書)である。
作家・井上が目指したものは、3つにまとめることができる。第1は、どんな逆境にあっても、今日よりも明るい明日の到来を確信する「希望としての笑い」を描き続けることである。すなわち、「大きな希望につながる小さな希望としての笑い」である。これは、厳しい生活環境の中でも、いつも笑いを忘れずに前を目指す、ヴァイタリティに溢れ創意工夫に富んだ母・マスの影響だろう。第2は、英雄やヒーローではなく、どのような権威や権力からも遠い「フツー人」を描き続けることである。正に、「フツー人によるフツー人のための人間変革と社会変革の希望」を描こうとしたのだ。言葉を換えれば、時代の「中心」、地理的な「中心」ではなく、「周辺」に拠点を置くということである。これは、小林多喜二と同世代で、小説や戯曲を書きながら農地解放活動に関わり、官憲の拷問がきっかけで死んだ父・修吉のDNAを受け継いでいるのだろう。第3は、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」描こうという姿勢である。最大限の効果を発揮し尽くそうとする井上の文章表現への執着ぶり、執念の苦闘ぶりは、よく知られている。この姿勢こそが、本人も認める「遅筆」を招来したのだ。
「笑い」がもたらすもの
「笑いは、肯定的な状態をもたらすわけではない。肯定的状態がすぐそばに見わたせる場所に人を連れだすのでもない。しかし、笑いは、人間的かつ社会的歪みからくるさびしさ、悲しさ、孤独、逃避、苦しさ、死への傾斜など否定的な状態に、一瞬、休止符をうつ。そのような重苦しい否定的状態をいきどまりにせず、そこからわずかに人を離れさせる。そこに、わずかとはいえ人の自由がうまれる。すこし離れて見ることがもたらすこの自由によって人は、否定的状態を相対化できる。あまりに巨大でうごかすことなど考えもしなかった状態の、意外な小ささや弱さを明るく元気な笑いとともに発見した人は、勇気をもって肯定的状態をめざしはじめる」という言葉は、文芸評論家として井上と親交のあった著者のものだけに説得力がある。やりがいがあり、充実感・達成感を味わうことのできるMRという仕事は、一方で、ストレスや悩みも多い。逆境に陥ったとき手にする井上作品は、明るく元気な笑いという希望の灯をともし、絶望から抜け出す勇気を与えてくれることだろう。
40年以上に亘り、「笑い」を武器に作品を生み続けてきた作家・井上ひさし。
井上は、苦境にあっても、その乗り越えを図る「希望としての笑い」に浸された無数の言葉、人、場面を生み出してきたのだ。意表をつく展開と笑いは、常識や決まり切った言葉や思考のパターンに囚われ眠り込んでいた私たちの感情と思考を目覚めさせる。
小説の醍醐味
『井上ひさし 希望としての笑い』では、実に多くの井上作品が簡潔かつ魅力的に紹介されている。私は、敢えて、この書では取り上げられていない『十二人の手紙』(井上ひさし著、中公文庫)に焦点を当ててみたい。なぜならば、井上作品はどれを読んでも損はないが、とりわけ、この作品は小説の醍醐味を味わわせてくれるからだ。
キャバレーに勤める元・修道女の身も心もボロボロの手紙。上京し、就職した小さな会社の社長の毒牙にかかった少女から弟らへの手紙。家出し、演劇スクールに通い、新人公演の主役を射止めた女性から高校の恩師への手紙。人妻に突然送られてきた、25年前に夫と同期だった男からの手紙。鞍馬山中で仕事に励む初老の画家への留守宅の妻からの驚くべき手紙。ペンフレンドを求める若き女性に寄せられた恐るべき手紙など、12人の手紙だけで構成されたこの書簡集には、悲しみと笑いが詰まっているが、さらにエピローグでこれらの登場人物たちが一堂に会するという、いかにも井上らしい趣向が凝らされている。
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