榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ボディ・レンタル稼業のわたしは、ベルメールの関節人形そのものだ・・・【山椒読書論(298)】

【amazon 『ボディ・レンタル』 カスタマーレビュー 2013年8月31日】 山椒読書論(298)

ボディ・レンタル』(佐藤亜有子著、河出文庫)には、何とも不思議な世界が描かれている。

一流大学に在学する女子学生が、ボディ・レンタル、すなわち自分の体を有料で貸し出すというのだ。それも特定の一人にではなく、複数の顧客に対して。

「わたしが自分の体を人に貸し与えるボディ・レンタルなる稼業を始めたのは、二十歳の誕生日を迎えて間もないころだった。といってもほんの三ヶ月前のことなので、顧客はまだ十五、六人といったところである。もちろん一度限りで失望あるいは満足してしまう男もいるし、オスのエゴと独占欲の強すぎる相手はこちらから断ることにしているので、継続的にわたしをレンタルする客は数えるほどしかいない」。

なぜ、この仕事を始めたのか。「わたしは金銭に困っていたのでも、人から強制されたのでもない。・・・もちろん、憧れはあった。非日常に引き込まれることへの憧れ。ある日突然車の中に引き込まれ、森の奥へ、館の奥へ連れ去られること、普通では味わうことのできない快楽の代償に、今までの自分をすべて否定するように強要されること。それとも、完全なオブジェになることへの憧れと言ったほうがいいだろうか。昔から、富豪に買われた女奴隷や娼婦の出てくる映画を見るたびに、うっとりするようないい気分になった」。まさに、「自分の体はレンタカーと同じなの。ブリキのおもちゃみたいにうさんくさくて、羽毛布団みたいに軽くて、焼き畑農業みたいに不毛なの」だ。

「このレンタルでは、いったん契約を結んでしまえばあとは顧客まかせである。わたしの判断が問題になるのはそこまでで、それからは完全なモノになりきる。あるいは、空っぽの容器になる」と言い切っている。

「ハンス・ベルメールの関節人形。それは滑稽なほど無防備な形で、ただそこにある。ものすごい執着と醜悪なまでの欲望と猥雑さの産物でありながら、ごろんとそこに転がっている。めったなことでは表に出せない妄想や、あらゆる汚らわしさを込めた視線を浴びながら、まるで無関心に、静かに息づいている。たぶんわたしの体とは、そのようなものなのだと思う」。このハンス・ベルメールの等身大のシュルレアリスム的な創作人形に事寄せた表白は、「わたし」の心理状態を実に巧みに表現している。

「わたしは鏡に映った自分の顔を見る。この一年で、ずいぶん娼婦めいた顔になったような気がする。娼婦めいた、というより、名前と人格を失った顔。あと二週間で、わたしのボディ・レンタルは一周年を迎える」。

こういう特異な作家を薬物中毒死で、43歳で失ってしまったことが悔やまれる。