私の好きな人物、北条早雲と太田道灌の発想と行動・・・【山椒読書論(443)】
私は、戦国期の人物としては、北条早雲と太田道灌に惹かれる。早雲は、徒手空拳の身で、己の才能だけを頼りに一国の主にのし上がり、戦国という新しい時代を切り開いた武将として。一方の道灌は、文武両道の器量人でありながら、上司にその実力と人望を妬まれて謀殺されてしまった不運の武将として。
早雲のことをもっと知りたくて、『箱根の坂(新装版)』(司馬遼太郎著、講談社文庫、上・中・下巻)に白羽の矢を立てたのである。
残念ながら、上巻は私のような目的にはそぐわないと言えるだろう。なぜなら、早雲のような身分の男の若い時代の史料が存在するわけもなく、著者の想像力によって前半生が描かれているからである。これは司馬遼太郎に限ったことではなく、どの著者でも同様である。しかしながら、司馬が紡ぎ出す独特の世界に浸りたいという向きには、堪らない作品だろう。
中巻に至り、早雲のサクセス・ストーリーが幕を上げる。そして、何ということだろう。早雲と肝胆相照らす近国の武将として道灌が登場するではないか。「代官は、(関東管領の)上杉定正家(扇谷<おうぎがやつ>上杉氏)の家老太田道灌なのである。その名は、京にまできこえていた。・・・『道灌が、このわしと同年のうまれとは・・・』。早雲は、調べるにつれてこのことにおどろいた。道灌は早くから家督を継いで歌道、合戦、(江戸城などの)築城に名をあげ、早雲がその名をきくこと久しかっただけに、よほどの老人かとおもっていたのである。このとし、双方、45であった」。
「道灌の新鮮さは、応仁ノ乱によって京で発生した足軽というものに着目したことであった。足軽は農村の非武士出身者で、京都では武士の戦闘を請負うようなかたちで跳梁した。道灌はこれを組織化し、しかもこれに訓練をほどこした。これまで戦闘者がみずからを個々に鍛えることはあっても、統轄する者が集団的にかれらを訓練するということはなかったといっていい。道灌は足軽戦法の創始者であったということで、後世の軍学者から評価された」。時代に先駆けて編み出したこの戦法をおかげで、道灌は連戦連勝であった。ただし、道灌は、関東の王者たるべき力量の男でありながら、自分を上杉氏の一官僚と位置づけ、ひたすら定正に忠義を尽くしていた。
「早雲が駿河に下向して(今川領内の)興国寺城主になったのは、文明8年、45歳のときである。歳月が流れて、この年、文明17年、54歳。9年というあいだ、一度も春が来ず、夏も来ず、秋も冬もなかったような顔をし、凝然と石に化(な)ったようにして暮らした。妻子なく、家もなく。――だだ、竜王丸(彦五郎)様の成人を見とどける。という一点に終始している」。縁あって、早雲が後ろ盾となっている竜王丸(後の今川氏親)を駿河の国主・守護の地位に就かせることだけに腐心しているのである。
「早雲は興国寺城に居つつも、(江戸の)道灌の表情、息づかい、肉声までをきく思いでいた。かれは、道灌を信頼していた。が、道灌は巍然とそびえ立ちすぎている。かれの主人(上杉定正)は、かれよりも小さかった。品性卑く、才薄く、本来、家老である道灌から威圧感のみをもちつづけてきた。――道灌は、田に舞いおりた鶴のようなものだ。上杉定正どのは鶴の背にひそむしらみに似ている。しらみどのは、自分こそ鶴の主人だと思って鶴の血を吸っているが、滑稽なものだ。と、早雲はおもっていた」。
「道灌は、古典的教養がありすぎ、あふれるような実力をもちつつも、自分が下剋上をおこすことを自戒しつづけていた。・・・太田道灌は、みずからをつよい倫理観で拘束していた。関八州の国人はことごとくといっていいほど、『事情さえゆるせば道灌どのの旗のもとに馳せ参じたい』と願っていたし、すでにその傘下にある国人たちも、戦場で道灌の指揮をうけることをよろこんでいた」。
「(定正の呼び出しを受けて)主家の別館にとまっていた道灌は、案内されて風呂に入った。・・・道灌が入浴をおえて出口から出ようとしたところ、(密命を受けた曾我)兵庫が大刀をふるって斬ったという」。文明18(1486)年のことであった。
下巻では、早雲が歴史上、果たした役割がくっきりと姿を現してくる。「国人・地侍・百姓の代表という者がこの世にいたためしがないが、このひと(早雲)こそそうではないかとおもった。そういう意味では、早雲は応仁・文明ノ乱で攪拌された社会の申し子であり、地下(じげ)の利益の代表者という意味では革命者ともいうべきだったろう」。
満を持して、早雲は、急峻な箱根の坂を越えて小田原の大勢力と決戦する意を固める。「『古き世を打ち破る』。ふるき世とは、室町体制ということであろう。足利将軍家から任命された守護と地頭でできあがっているこの世を、民政主義をかかげてやぶってしまう、というのである」。「早雲の場合、いきなり農民の支配者になる。かつて小グループごとに農民をちまちまと支配していた旧地頭や、国人・地侍を家臣化し、行政と軍事の専門家とする、いわば一国をもって一体のかたちにしようというもの」だ。「早雲が小田原城を手に入れたのは、64歳のときである。かれがその死によって現役を終えるのは88歳だから、小田原奪取のときにはまだ24年の人生が残されている。尋常な長命ではない」。
やがて、早雲は相模一国を手に入れるが、「室町体制のなかに領国制という新思想を入れたかれは、その基礎ともいうべき検地をした。一村ごとに、その水田耕地の面積をはかり、また畑地、屋敷地、山林、沼沢を数字として出してゆくのである。後年、領国主義の総仕上げの選手として織田信長と豊臣秀吉が出、かれらは検地をもってその政治思想の基礎としたが、早雲がその思想の遠祖というべき存在だった。ほかに、あらたな政治思想による民政上の課題――貫高制や貨幣政策など――が多く、早雲は晩年になればなるほど多忙だった。その上、たえまなく土民の教育をした。かれがさだめた生活規範として、『壁書(へきしょ)二十一条』というものがある。・・・人たるものは何時に寝て何時に起きよ、とか、目上によばれれば、まずいちはやく『あっ』と返事をせよ、あるいは夕方になると火の用心のために家中を見てまわれ、とかいうようにこまごましている。いかにも口喧しげな老人が目に見えるようである。が、平素の早雲は無口で寛容な男だった」。
紛れもなく、早雲以後、戦国の世が始まるのである。