吉田松陰が愛した弟子・吉田稔麿の野心と早過ぎた死・・・【山椒読書論(497)】
吉田松陰の最も優秀な弟子といわれた高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿(としまろ)のうち、吉田稔麿についてはほとんど何も知らなかったので、『吉田稔麿 松陰の志を継いだ男』(一坂太郎著、角川選書)を手にした。
本書で3つのことを知ることができた。
第1に、稔麿が中間(ちゅうげん)という最下級の階層の出身者であったこと。だからこそ、この境遇から脱出しようと必死だったのだ。
「『乱世』に生きていると強く自覚していた稔麿は、その波に乗って下級武士の身分からはい上がろうとの、野心を抱く。だからこそ危険を顧みず、身分を詐称して幕府方に潜入するという、まるで講談小説のような活動も行っている。日本の未来を案じるという『志』と、立身出世に対するむき出しの『野心』とを堂々と共存させていたのだ。維新の元勲となり栄達を極めた同志たち(伊藤博文、品川弥二郎など)も、後年まで忘れられないほど優秀で、ユニークな人物だったようである」。
稔麿の出身階層である中間は、「日ごろは、与えられた雑務を淡々とこなす。戦争のさいは、足軽(雑兵)より下に置かれ、戦闘員には数えられない。『士分』である上中級武士たちからは『軽卒』とか『雑卒』と呼ばれ、時に蔑視される下級武士のひとつだ」。
「遊び好きで、女郎屋にも通っていた稔麿は下半身の病を患っており、それが悪化したらしい」。
「稔麿の生命は、実はあとひと月も残されてはいない。もちろん本人はそのことを知る由もなく、夏の京都を楽しんでいた。・・・稔麿は芝居(歌舞伎)好きで、江戸では(旗本の)妻木向休と一緒に芝居小屋に行ったりしていた」。
第2に、稔麿の師・松陰の理想主義、行動主義が徹底的で過激だったため、松陰と稔麿ら弟子たちとの間に溝ができてしまったこと。
「長州藩で吉田松陰が主宰した松下村塾は、幕末から明治にかけて活躍した、多数の人材が輩出したことで知られる。その中でも『三秀』、つまりベストスリーとされるのが高杉晋作・久坂玄瑞、そして本書の主人公である吉田稔麿(栄太郎)だ」。
「松陰が主宰する松下村塾は、政治結社的な色彩が濃くなってゆく」。
「立てた志は必ずしも、万人に理解してもらえるとは限らない。その場合は狂っていると思われても構わないのだと、松陰は言う。『狂』は崇高な境地であった。松陰は時に自分の行動を『狂挙』と呼んだ。脱藩して東北の防備を視察したのも、浪人の身で藩主に上書を出したのも、アメリカ密航を企てたのも『狂挙』なのだ」。
「(松陰は)山鹿流兵学者の立場で、いかにして外圧を除くかといった課題に門下生とともに取り組んでいた」。
第3に、稔麿の死と池田屋事変との関係が、ある程度、明らかになったこと。
「稔麿は新選(撰)組がその名を轟かせた元治元年(1864)6月5日の『池田屋事変』において、わずか24歳で闘死したためか、高杉・久坂に比べてあまり語られることがない」。
「(池田屋事変が起こった日、長州)藩邸を出た稔麿は多人数の一団(京都守護職の会津藩兵?)に遭遇し、なにやら口論のすえ斬り殺されてしまった」というのが、実情のようだ。
大望を抱きながら、若くして逝った稔麿のことを、もっと多くの人たちに知ってもらいたいと念じながら、最後のページを閉じた。