榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

哲学を知れば、生き方が変わる・・・【続・独りよがりの読書論(13)】

【にぎわい 2010年6月30日号】 続・独りよがりの読者論(13)

自分を知るための哲学入門』(竹田青嗣著、ちくま学芸文庫)は、厚さが11mmしかない。なりは小さいが、恐るべきパワーを秘めた本である。この本にもっと早く出会っていたら、もっと充実した生き方ができていたと思う。

この本の魅力は3つある。第1は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表される古代ギリシャ哲学から、デカルト、スピノザ、カント、ヘーゲルを経て、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーに至る近代哲学までの思想の流れが体系的に、簡潔に、イラストの助けを借りながら、分かり易く述べられていること。第2は、構造主義、ポスト構造主義などの現代思想にも説明が及んでいること。第3は、著者が血みどろの体験を通じて?んだ、「哲学とは、自分を深く知り、自分をよく生かすための、そして、他者と本当に関わるための、最も優れた技術(アート)である。哲学を学ぶということは、哲学者の学説を学ぶことではなく、それを通してこの技術を自分の中で大切に育て上げること」という確信が鮮明に、大胆に打ち出されていること。

私たちは、具体的には、どのように生きればよいのだろうか。先ず、価値判断をする場合は、特定の神、主義、イデオロギーなどに頼らずに、自分自身を判断すること、そして、創造的、行動的、自己肯定的に生き、生を積極的に楽しむこと。このように生きるためには、自分自身の力――自分にできることと、できないこと――をよく知っておくことが必要である。すなわち、現実の矛盾をいったん認めた上で、自分の力で実現が可能な目標を立て、その実現を目指して情熱的に生きることである。

『自分を知るための哲学入門』の続編ともいうべき『よみがえれ、哲学』(竹田青嗣・西研著、日本放送出版協会・NHKブックス)は、近代哲学に批判的な「ポストモダン思想」や「分析哲学」によって、今や葬り去られようとしている近代哲学を復興せねばという危機意識から生まれた対談集である。

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哲学からのメッセージ』(木原武一著、新潮選書。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、役に立つ本である。この本は、『自分を知るための哲学入門』のように哲学を体系的に語ることは、最初から意図していない。この著者は、7人の哲学者――ソクラテス、デカルト、パスカル、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ――に的を絞って、彼らのメッセージを一所懸命聴き取ろうとしている。そして、そのメッセージを著者自身の言葉で、すなわち哲学用語でなく、私たちにも理解できる普通の言葉で私たちに伝えようとしている。

著者のこの試みは見事に成功している。例えば、キルケゴールのメッセージはこのように説明されている。「キルケゴールが相手にするのは小さなテーマである。『人間』ではなく、『個人』をとりあげ、それも、彼のほかにはだれも知らない『自分自身』について考える。こうして生まれた新しい哲学は、実存哲学あるいは実存主義哲学と呼ばれて、20世紀の哲学の主流を占め、一時は世界の知識人のあいだに大流行するほどにもなった」。

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ニーチェ入門』(竹田青嗣著、ちくま新書)は、刺激的な本である。この本を読むと、難解といわれるニーチェの哲学の全体像がすっきりと頭に入ってくる。ニーチェがこんなに簡単に分かっていいのだろうかと心配になるほど、よく理解できる。ニーチェの哲学の出発点となり、また彼の哲学を支える3本の柱の1つとなった「キリスト教批判」のくだりなどは、息苦しくなるほどの迫力で迫ってくる。ニーチェというのは噂に違わぬスケールの大きな哲学者だ、と誰もが納得してしまうだろう。

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ルー・ザロメ――ニーチェ・リルケ・フロイトを生きた女』(白井健三郎著、泰流社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、ニーチェが失恋した女性ルー・ザロメの生涯を生き生きと甦らせた興味深い本である。

ニーチェは後に、ザロメへの手紙の中で、ザロメと過ごした一時を、「私の生涯で最も恍惚とした夢を持った」時間だったと書き記している。ニーチェはこのドラマティックな失恋を経験した翌年、あの大作『ツァラトゥストラはこう語った』のインスピレーションを得るのである。ルー・ザロメは鋭い感受性と優れた知性に恵まれた思想家で、彼女がいかに魅力的な女性であったかは、後年、リルケ、フロイトから愛されたことからも明らかである。

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翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』(永井均著、ちくま学芸文庫)は、中学生、高校生のために書かれた哲学入門書であるが、大人が読んでもどうしてどうして歯応えがある。

中学生の翔太と猫のインサイトが、「心があるって、どういうこと?」、「死ぬって、どういうこと?」といった問いを巡り対話する。これらを通じて、デカルト、カント、ウィトゲンシュタイン、ハイデガーの哲学がいつの間にか理解できる仕組みになっている。

例えば、死については、このような会話が交わされる。「死はね、体験じゃないんだよ。痛みや悲しみや欲望のように、他人や自分が持つものじゃないんだ。だから、死んだ人だって死を体験してはいないさ。臨死体験はありえても、死の体験はありえないんだ。体験する主体そのものが消滅するってことなんだから、まさにその体験がありえないってことこそが、死ってものの根底的な意味なんだよ」。「死ぬってことはあらゆるものを体験する自分がいなくなっちゃうっていうことだから、それが恐いっていうのは変な感じがするんだよ。ふつうは、何かが恐いとか、嫌だとかいうときには、自分がそれを体験するのが恐かったり嫌だったりするよね? そういう自分そのものがいない状態なんか、恐いはずはないじゃん?」。

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方法序説』(ルネ・デカルト著、谷川多佳子訳、岩波文庫)は、本文部分の厚さがたった4mmしかない。デカルトの思想的自叙伝であるが、哲学の原典の中で、この本ほど読み易い本はない。全ての哲学書が、この本のように特別の用語でなく、誰にでも理解できる平明な言葉で書かれていたら、どんなに助かることだろう。哲学の解説書では物足りない、原点に触れてみたいという向きには、先ず、この本から取りかかることをお勧めしたい。

近代哲学の思考の出発点とされる「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」は、第4部でこのように記されている。「次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして『わたしは考える、ゆえにわたしは存在する』というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した」。哲学は、デカルトにとっては決意であり、冒険であったのである。