幕末から明治への激動の時代を逞しく生き抜いた女性がいた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(225)】
私の腹囲対策の糖質(=炭水化物-食物繊維)制限食に、対策の必要がない女房も付き合って4年3カ月になりますが、女房は時折、パンが恋しくなるようです。散策中に、ホオズキの萼が網の目のようになって中の赤い実が透けて見えるのを見つけました。小さなキクたちも咲いています。因みに、本日の歩数は10,875でした。
閑話休題、NHKの連続テレビ・ドラマ「あさが来た」の影響で、ヒロインのモデルの広岡浅子の実像を知りたくなり、『広岡浅子――明治日本を切り開いた女性実業家』(小前亮著、星海社新書)を手にしました。
幕末に京都の豪商・三井家(三井十一家のうちの出水三井家。後の小石川三井家)に生まれ、大坂の豪商・加島屋に嫁いだこと、夫や夫の弟を助けるべく実業家の道を歩み、傾きかけた加島屋を支えたこと、加島銀行創業に関わり、炭鉱業に参入したこと、大同生命の礎を築き、日本女子大学の創設に尽力したことなど、彼女が激動の時代を逞しく生き抜いたことを知り、知的好奇心を満足させることができました。収録されている80点を超える写真が理解を深めてくれました。
夫との関係は、このように記されています。「広岡家(加島屋)に嫁入りしてから、浅子は簿記や算術など、商売に必要な知識を身につけようとしていた」。「イメージされるのは、互いの役割を理解しあった仲の良い夫婦である。男勝りで気の強い浅子の夫は、(広岡)信五郎にしかつとまらなかったのではないか。・・・そもそも、男尊女卑の時代に妻に勉強することを許し、仕事を任せていた男である。浅子と同じくらい、いやそれ以上に、信五郎は誹謗中傷を受けていたはずだ。それでも、妻の能力を信じて、すべてをゆだねた。なかなかできることではない。浅子の才覚も稀ながら、信五郎の包容力も稀だった。これ以上ない夫婦の組み合わせが、加島屋を救ったのだ」。「江戸時代の豪商の半分以上は、明治になって没落した。その代表格が、作兵衛のほうの加島屋や浅子の(異腹の)姉(・春)が嫁いだ天王寺屋である」。
「明治17年(1884年)、浅子はついに動き出す。加島屋の未来を託したのは、石炭(輸出)事業であった」。この事業はうまくいかなかったが、「浅子はくじけなかった。明治19年(1886年)、日本石炭会社を設立し、炭鉱経営に進出する」。浅子36歳の時のことでした。洋装でピストルを懐にした浅子は、潤野炭鉱で新しい坑道の開削を監督します。「石炭が眠っていそうな場所に縦穴を掘る方式で、着炭する(石炭の鉱脈にぶつかる)かどうかは運にも左右される、トップが現場におもむいたからといって、運がよくなるはずはないが、熱意が伝わって士気はあがっただろう。浅子の奮闘の甲斐あって、潤野炭鉱の再開発は成功する」。その後、潤野炭鉱は順調に生産量を伸ばしていきます。
続いて、浅子38歳の時、加島銀行が開業します。念願の銀行設立が成ったのです。
明治32年(1899年)には、生命保険業にも参入を果たします。これが大同生命で、浅子は49歳でした。
次に、教育面を見ていきましょう。筑豊の炭鉱に出かけた時、列車内で読んだ『女子教育』という本に感銘を受け、日本女子大学設立に奔走し、明治34年(1901年)に開校に漕ぎ着けます。浅子51歳の時のことです。
大正3年(1914年)からは、毎年、静岡県御殿場の二の岡で、女子学生の夏期合宿を主催し、これと見込んだ学生を鍛え上げることに情熱を注ぎます。ここから巣立った人物に市川房枝や村岡花子などがいます。
最後に、家庭面を見てみましょう。娘の出産が難産だったため、浅子は以後、子供をつくることを諦めます。「三井家からしたがってきた自分の召使いを、浅子は信五郎の妾にしたのだ。富裕な実業家や政治家が妾を持つのは珍しくない時代だが、妻がみずから勧めたことには、周りもおどろいたようだ。浅子としては、人柄がわかっていれば安心だという考えがあったのだろう。妾は小藤と呼ばれていた。ひかえめな性格で、つねに一歩ひいて、自分の産んだ子供たちを見守っていたという。・・・浅子は子供たち(自分が産んだ一人娘と、小藤が産んだ一男三女)をわけへだてなく育てたそうだ」。自身も妾腹であったことが関係しているかもしれません。
浅子が気に入っていた言葉は、「七転び八起き」の上をいく「九転十起」だったそうです。浅子の力強い生き方は、女性だけでなく、男性にも勇気を与えてくれます。