前方後円墳は日本独自の形だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(609)】
私の一番好きな石段は、パリのサクレ・クール寺院に続くモンマルトルの石段です。パリを訪れたときは、必ずこの石段を上り下りします。パリをこよなく愛した写真家・ブラッシャイ(ブラッサイ)の1936年の作品「モンマルトルの階段」から、その魅力的な雰囲気が伝わってきます。日の出前、東の空に明けの明星(金星)が輝いていました。町はすっかりクリスマス・モードです。因みに、本日の歩数は10,668でした。
閑話休題、『古墳の古代史――東アジアのなかの日本』(森下章司著、ちくま新書)は、紀元前1世紀~紀元4世紀の東アジアにおける、中国、朝鮮、日本の古墳について考察しています。
本書には、「渦巻」という用語が頻出します。「『渦巻』とは、各地域において社会の集団化と階層化が進み、有力者・支配者などが現れた時代から、『王』や『大王』と呼ばれる多くの集団を束ねる存在の支配者が登場するまでの段階の地域社会を示す表現である。身分の差や有力者・支配者という中心は存在するものの、位階制など社会的な仕組みとしては固まっておらず、また領域も明確な境界は形成していない。このような状態を『渦巻』になぞられた。こうした動きをもっとも雄弁に物語る考古資料は墳墓である」。
紀元前1世紀~紀元1世紀の朝鮮半島南東部や九州北部では、楽浪を通じてもたらされた製品を含む豊富な器物を副葬した墓が登場します。2世紀には、倭では楯築墓に代表される大きな墳丘を持ち、他の墓から独立した墳墓が登場します。3~4世紀になると、巨大な墳丘と豊富な副葬品を備えた「王墓」が登場してきます。倭では、三角縁神獣鏡など、中央からの器物を「威信財」として「配布」するという方式による渦巻の強化が認められます。
中国の墳墓の特徴は、このように説明されています。「皇帝陵に限らず、それ以下の位の人々の墳墓にも共通した観念の存在が認められる。それは死者の世界と現世がつながっており、それが墳墓の形式や祖先祭祀などに明確に反映していることだ。墳墓が帝位や地位の継承、一族の維持など社会的機能に重要な役割を果たす点もその特色である」。死者は來世でも現世と同様の生活を送ると考えられていたのです。
朝鮮の墳墓については、「墳墓が死者のための施設にとどまらず、祖霊に対する祭祀とそのための設備により、生者の世界と恒常的に結びついていたことに特徴がある」と、記されています。
ところが、倭では中国、朝鮮とは大きく異なる方向に墳墓が進化していきます。「私が倭の古墳のもっとも大きな特徴と考えるのは、墳丘に対する独特の『こだわり』である。前方後円墳という奇妙な形を採用し、かつ300年近くも継承し続けた。他地域では方墳や円墳といった単純な形がほとんどであることと比較すると、倭においては墳丘が特別な意味をもっていたといえる」。私たちは古墳といえば先ず前方後円墳を思い浮かべますが、これは我が国特有のものだったのですね。「(前方後円墳のような巨大墳墓)築造時に費やされたエネルギーとは対照的に、埋葬の終了後、古墳が継続的に利用された形跡はとぼしい」。このように倭で独自の形式の墳墓が発達した背景を、著者はこう推考しています。「聖なる領域として、独立した存在として扱われたのである。また継続して祭祀をおこなう場でもなかったわけである」。「古墳から被葬者が『見る』ことと、その一族や支配下のひとびとから『見られる』ことの双方が意識されて築かれたのであろう」。「倭では墳墓が日常生活から独立した空間を形成していたものと考えられる」。
「墳丘のあり方に加え、私が倭の古墳と中国・朝鮮半島の墳墓とのちがいが大きいと思うのは副葬品の性格である」。あちらでは、死者があの世で生活するのに必要な器物や食糧が納められ、まるであの世への引っ越しのようです。一方、倭では銅鏡や装飾品、武器、馬具といった器物が中心で、日常生活用品は極めて乏しいのです。「来世や子孫など現実の生活とは切り離された存在として機能したのが、倭で発達をとげた古墳の特色である」。
一口に古墳といっても、中国、朝鮮と日本とでは、その課された役割が異なっていたことを、本書で知ることができました。