ちょっと爪先立って、日常を詩にする、それが俳句なのだ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(749)】
野鳥観察会に参加しました。5mの近さでホオジロ(同行の斉藤裕氏撮影)を、遠くからシジュウカラ、カワラヒワ、ツバメなどを観察することができました。緑色のクビキリギスは周囲の緑色に溶け込んでいます。ヨコヅナサシガメの羽化直後の成虫は赤色ですが、時間が経つと黒色に変わります。ミズキが白い花をたくさん咲かせています。虹色に染まる環水平アークを目撃することができました。因みに、本日の歩数は20,388でした。
閑話休題、『俳句と暮らす』(小川軽舟著、中公新書)には、こんなことが書かれています。
「俳句とは記憶の抽斗を開ける鍵のようなものだ。読者がそれぞれの抽斗を開けてそこに見出すものは同じではない。俳句が引き出す情景は作者が頭に思い浮かべていた情景に限定されない。読者それぞれの抽斗が引かれればそれでよいのだ。たった五七五、十七音しかない俳句が豊かな内容を持ち得るのは、このように読者が脳裏に収めているさまざまな情景を思い出すという過程を内包しているからである。五七五に限定された言葉が直接指し示すものの情報量はわずかだが、それをきっかけに引き出される読者の記憶の情報量は限りを知らない」。ともすれば、私のような未熟者は句を作った状況を理解してもらいたいと多くの情報を盛り込もうと足掻くのですが、それは無用の長物だと、著者は言っているのです。
本書は、「飯を作る」、「会社で働く」、「妻に会う」、「散歩をする」、「酒を飲む」、「病気で死ぬ」、「芭蕉も暮らす」の7章で構成されています。
「妻に会う」という表現には、軽舟が単身赴任のサラリーマンで、自宅に帰るのは月に2回くらいという事情が反映しています。
「妻に会う」の章で取り上げられている、軽舟の「暑き日の熱き湯に入るわが家かな」の句は、単身赴任の経験がない私でも共感できます。「単身赴任だと暑い夏にはわざわざ風呂を沸かさない。仕事を終えて家に帰ると、一日の炎天に耐えた部屋はむっと暑い。エアコンを入れてさっさとシャワーを浴びる。それでだいたいひと夏過ごしてしまう。しかし、家族の家に帰るとちゃんと風呂が沸いている。熱い湯に身を浸して汗を流す。目をつぶって、これがわが家だと実感する」。
「連れだちて妻も湯上がりえごの花」も、心に沁みる句です。「新幹線の飯山駅で待ち合わせてバスで野沢温泉に向かった。野沢温泉では土地の人が山菜を湯掻く源泉の前の宿に泊まり、下駄を鳴らして外湯めぐりも楽しんだのだった。えごの木が清楚な白い花を咲かせていた」。軽舟の妻は、きっとエゴノキの花のように清楚な人なのでしょう。
「私は単身赴任という特別な境遇にある。しかし、別に単身赴任などしなくても、暮らし方と気持ち一つで『妻に会う』ことはできるのではないか」。まさに、そのとおりです。
「過去と未来の接点に現在の日常がある。振り返れば過去があり、前を向けば未来があり、見まわせば同じように平凡な日常を重ねる人々がいる。俳句はこの何でもない日常を詩にすることができる文芸である。しかし、日常にべったり両足を着けたままでは詩は生まれない。ちょっと爪先立ってみる。それだけで日常には新しい発見がある。その発見が詩になる。ちょっと爪先立ってみる――それが俳句なのだ」。軽舟の俳句論は簡潔ですが、説得力があります。