渡辺崋山が獄に繋がれた蛮社の獄の真相・・・【情熱的読書人間のないしょ話(689)】
野鳥観察会に参加しました。これまで何度も目にしながら、撮影失敗を重ねてきたオオタカの雄姿を遂にカメラに収めることができました。オオタカの食痕――トラツグミとヤマシギの羽――が見つかりました。ニホンノウサギもオオタカの獲物となりますが、そのニホンノウサギの食痕――上部が食いちぎられたジャノヒゲ(リュウノヒゲ)――と、昨夜のものと思われる糞も見つかりました。尾羽が長いエナガ、カワラヒワ、ツグミ、オカヨシガモ、逆立ち採食しているオナガガモ、オオバンなど36種を観察することができました。ウグイスのぐぜり(練習中の囀り)、ヒバリのにぎやかな囀りを耳にしました。因みに、本日の歩数は15,947でした。
閑話休題、『渡辺崋山書簡集』(渡辺崋山著、別所興一訳注、平凡社・東洋文庫)のおかげで、渡辺崋山について多くの事実を知ることができました。
崋山が「鷹見泉石像」などを描いた当代一流の画家であったことはよく知られていますが、書画、俳諧、漢詩、儒学、博物学などの勉学を通じて、高野長英、江川英龍(太郎左衛門)、川路聖謨など、幅広い人脈を有していたことに驚かされました。
中でも、剣術家・斎藤弥九郎宛ての書簡が収録されているは意外でした。弥九郎は幕末江戸三大道場の一つ、練兵館の創立者で、その弟子には桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、品川弥二郎、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)などがいます。
書簡から、小藩とはいえ三河の田原藩の江戸詰家老として藩政改革に力を尽くしたこと、藩内の守旧派対改革派の争いに巻き込まれ、苦労したことが窺われます。
蛮社の獄と呼ばれる言論弾圧事件で獄に繋がれたことを、崋山自身がどう考えていたのか、また、その後の蟄居中になぜ自害したのかが、書簡によって明らかにされています。
天保10(1839)年6月9日付の鈴木春山宛ての獄中からの書簡に、こう記されています。「洋楽を刈り取るのに小生を首領として事件をでっちあげたこと自体が疑わしいことです。・・・この事件を画策したのは鳥居耀蔵に間違いなく、その策略はたいへん巧妙です。・・・今日憂慮すべきは海外事情です。西洋の学説を閉鎖すると西洋諸国がますます文明開化されてゆくのに、わが日本はますます海外事情に暗くなります。社会の上級の者が海外事情に暗く下級の者が明るくなると、上級の者は海外事情を忌み嫌い、下級の者は過激化します。そのことは百年後には多くの人々が知ることになるでしょう。・・・佐藤一斎とは親子のような間柄ですから、(仮出獄への協力を)まったく依頼しないのもどうかと思われます。・・・佐久間象山には厚くお礼してください。大いに悟りを開き気力を増すことができましたから」。
『言志四録』で知られる佐藤一斎とは、崋山が19歳の時から30年間師事した関係ですが、一斎は崋山の救援には手を貸しませんでした。
天保12(1841)年10月10日付の椿椿山宛ての遺書は、こう綴られています。「この頃無実の悪評がだんだん広まり、災いに行き着くのが必至の情勢になりました。このままですと主人(田原藩主・三宅康直)の身に危難が及びますので、今晩自殺致します。こんな結末に到ったのは私がご公儀(幕府)の政治を批判する罪を犯しながら、不謹慎な行動に及んだことに落ち着くものと存じます」。崋山自刃の前日に書かれた愛弟子宛ての書簡です。48年の生涯でした。
江戸後期、開国前夜の開明知識人の苦悩が直に伝わってくる書簡集です。