大航海時代にポルトガル人が行った日本人奴隷取り引きの実態・・・【情熱的読書人間のないしょ話(912)】
ハシボソガラスが盛んに鳴いています。テッポウユリが緑色の実を付けています。覆面の男のような落ち葉を見つけました。
閑話休題、『大航海時代の日本人奴隷――アジア・新大陸・ヨーロッパ』(ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子著、中公叢書)には、思いがけないことが記されています。
「南蛮貿易で少なからず日本人の人身売買がおこなわれていたことは、戦前にすでに岡本良和が証明していたし、今では邦訳が文庫本で読める戦国期から織豊政権期の日本をあざやかに描いたフロイスの『日本史』にも、それに関する記述は多々あるからである。近年は藤木久志等の研究により、日本国内には、古代から『奴隷』的存在の人々がおり、戦国時代には『奴隷』として売るために、敵地で『人を狩る』行為が、ほぼ日常的におこなわれていたことも周知の通りである。戦国時代の日本国内に、『奴隷』とされた人々が多数存在し、ポルトガル人が彼らを海外に連れ出していたことはかなり昔から言われながらも、その事実は一般にはほとんど知られておらず、南蛮貿易やキリシタン史の専門的な研究でも、この問題の細部にまで立ち入ったものはなかった」。本書は、勇敢な探検者たちの『大航海時代』とは異なる、この時代に生き、大きな歴史の流れに埋もれて人知れず生涯を終えた人々の『大航海』に目を向け、ポルトガル人の世界進出の秘められた暗部を白日の下に曝しています。
「1598年、日本にいたイエズス会士たちは、ポルトガル人商人と日本人女性奴隷の関係を大々的に批判した。商人たちはマカオへ戻る際に、内縁関係にある女性奴隷を、こっそり船内の自分たちの部屋に隠して、マカオへ連れて行く習慣があったためである。・・・1560年代に来日した多くのポルトガル船は女性奴隷を乗せて出港し、彼女たちはマカオへ送られた後、さらにマラッカやゴアまで運ばれていった」。
「また別の事例として、1570年代初頭、10歳にも満たない日本人の少女マリア・ペレイラがポルトガルに到着した事実が挙げられる。彼女は20年間家事奴隷として仕えた後、事由の身となった」。
「また別の遺言状から、1600年頃マカオにいた別の未成年の日本人の女性奴隷の詳細がわかる。マダレーナというその女性は、ルシア・ロウバータという婦人に仕える奴隷であった。彼女は遺言状に、自分の死後、日本人奴隷のマダレーナを解放」するようにという指示を残しています。
「マカオでの生活に不慣れなまま、主人から離れ、自由民となった日本人は、女性の場合、生きる術として、売春を選ぶことも多々あった。またゴアからマカオに至るポルトガル領の港では、病気で働くことのできない高齢の奴隷が、しばしば道に捨てられ、誰にも拾われることなく孤独死する姿も見られた。こうした高齢の奴隷はまったく利益を生まず、養うのは経済的な負担であり、また彼ら自身、生きていく術を持たなかったので、主人は自死を命じた」。
「フランス人の冒険家ジャン・モケは、1610年ゴアに滞在した頃の、一人の日本人女性に関する出来事を記している。ゴアに滞在中のモケに、とあるポルトガル人が次のように話した。購入して間もない日本人の女性奴隷の歯が白いことを、彼が褒めたところ、彼の留守中に、妻がその奴隷を呼び出し、召使いにその歯を砕くよう命じたのだった。その後、夫がこの奴隷を妾にしているのではないかと疑った妻は、熱した鉄棒を彼女の陰部に押しつけるよう命じ、その結果その女奴隷は死んでしまった、という。この無残な事件の顛末は、奴隷を虐待し、殺害した所有者の家族には、何の刑罰も与えられなかった事実を示しており、このような虐待は日常的なものであったことが、モケの記録からも判明する」。
「戦国時代に流出した日本人の奴隷は、(内戦の)戦争捕虜であるばかりでなく、誘拐された子供、親に売られた子供なども多くあった」。
「16世紀のポルトガル人による奴隷貿易は、日本やアジアに限らず、全世界的な現象であった。人間が商品として売買されることが、最も日常的であった時代の一つである。・・・イエズス会の宣教師は、奴隷として売買される人々の存在を知っていたし、その取引が正当化されるプロセスにも(洗礼を授けるという形で)関与していたと言わねばならない」。
戦国時代に海外へ連れ出された日本人奴隷の実態と、その国際的なネットワークが初めて実証的に明らかにされたという意味で、本書は貴重なのです。