640年間に亘るハプスブルク帝国の全体像が理解できる図説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1172)】
東京・杉並の高円寺を巡る散歩会に参加しました。長塀に囲まれた真盛寺は緑に包まれています。妙法寺の仁王像、狛犬が迎えてくれました。蓮光寺の竜はカラフルです。梅里公園で井戸のポンプ、愉快な子供像を見かけました。蚕糸の森公園では子供たちが水遊びに興じています。因みに、本日の歩数は19,624でした。
閑話休題、『図説 ハプスブルク帝国』(加藤雅彦著、河出書房新社・ふくろうの本)のおかげで、これまで断片的な知識に止まっていたハプスブルク帝国の歴史の全体像を知ることができました。
1278年から1918年まで640年続いたハプスブルク帝国の歴史の中で、先ず注目すべきは、フリードリヒ3世(在位1440~1493年)です。「優柔不断で臆病な彼は、およそ戦いには不向きの人間であったが、ひたすら辛抱づよく耐えしのぶことによって、逆境や災難を切り抜けるのを得意とした。しかも彼はこの間、ハプスブルク家繁栄の礎を築くことに成功したのである。彼は、戦わずして王家を発展させる独特の術を心得ていた。結婚政索である。・・・フリードリヒの結婚政索は、さらに(息子の)マクシミリアン(1世。同1486~1510年)に引き継がれる」。ハプスブルク家は、この結婚政索によって、5組の王家間結婚を成立させ、ブルグント、スペイン、ボヘミア、ハンガリーを獲得します。スペイン獲得により、ハプスブルク家は文字どおり「日没なき世界帝国」の支配者となったのです。
カール5世(同1516~1556年)の死後、彼の意に従い、ハプスブルク帝国はスペイン系とオーストリア系に二分されます。
スペイン系ハプスブルク家が継承問題から戦争に巻き込まれ、消滅してしまった後、オーストリア系ハプスブルク家も、カール6世(同1711~1740年)が男子の世継ぎに恵まれなかったため、王家廃絶の危機を迎えます。周辺諸国の猛反対を押し切って、カール6世の23歳の長女、マリア・テレジア(同1740~1780年)が相続します。「1745年には、彼女の夫フランツ・シュテファンが、フランツ1世・シュテファン(同1745~1765年)として皇帝に選ばれた。皇帝の権限は事実上マリア・テレジアが行使したため、一般に『女帝』マリア・テレジアといわれるが、彼女は公式には女帝ではなく、『皇帝妃』であったのである」。
「これまでハプスブルク家を悩ませてきた(フランスの)ブルボン家との敵対関係は、マリア・テレジアの時代に終止符をうつ。それに代わって、新たにプロイセンが強力なライバルとして登場する。両者の欧州政治における激しい覇権争いは、19世紀後半までつづき、最終的にはプロイセンが勝利をおさめるのである」。
「男系が絶え王家断絶かという国家存亡のとき、しかもポーランド分割のような弱肉強食があたりまえというこの時代に、マリア・テレジアのような英明で、果断な女帝をえたオーストリアは、まったく幸運であったというべきであろう」。「マリア・テレジアの偉大さは、傑出した君主であったことだけではなかった。多忙な政務のかたわら、家庭生活において、彼女はすぐれてよき妻でありよき母親でもあった。夫のフランツ1世・シュテファンとは、王家間の結婚にはめずらしく、恋愛によって結ばれた間柄であった。その夫とのあいだに、彼女は16人の子供をもうけ、6人は亡くしたが、あとは立派に育て上げた。夫フランツが先だったあと、マリア・テレジアは深い悲しみに沈み、死ぬまで喪服をぬぐことはなかった」。マリア・テレジアの子だくさんは、子供好きの彼女に幸せをもたらしたが、同時に、王家の繁栄を図るという彼女の政治的な戦略でもあったのです。
フランス国王ルイ16世の王妃に送り込んだ末娘、マリー・アントワネットの刑死を知らずに世を去ったのは、マリア・テレジアにとって、せめてもの救いと言えるでしょう。
マリア・テレジアの治世は、息子・ヨーゼフ2世(同1765~1790年)との共同統治を含め40年に及びます。1780年にマリア・テレジアが死去すると、改革はヨーゼフ2世によって引き継がれ、さらに一段と拡大されました。「彼(ヨーゼフ2世)のもとで、農奴制と拷問は廃止された。宗教寛容令が出された。ユダヤ人に対して社会的進出への道が大きく開かれた。・・・王家の馬場・猟場であったプラーター公園がウィーン市民に解放された。そしてさらには、2000人を収容できるウィーン総合病院が開設された」。
その後、紆余曲折を経て、1918年のハプスブルク帝国崩壊に至るまでが手際よく描かれています。全ページに掲載された図像が理解を助けてくれました。