読者としての、編集者としての見城徹の人生を切り開いた本・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1184)】
千葉・野田の理窓会記念自然公園を巡る植物観察会に参加しました。野生種のコオニユリ、ノカンゾウ、アキノタムラソウ、クサギ、ヤブマオの花、エゴノキ、センダンの実を観察することができました。ハス田が見頃を迎えています。因みに、本日の歩数は16,930でした。
閑話休題、正直に言うと、私は見城徹という人物があまり好きになれません。その権力志向や、彼が編集者としてヒットさせてきた作品群にそれほどの価値があるとは思えないからです。企業経営者として売れる作品は必要でしょうが、人生を考えさせるような深みのあるものが見当たらないからです。
しかしながら、『読書という荒野』(見城徹著、幻冬舎)で述べられている読書に対する考え方には全面的に賛成です。
「本には、人間社会を理解する上でのすべてが含まれている。人間は途方もなく多様な存在で、自分では想像もできないような考えを持つ他者がいること。ゆえに、人間同士の争いは決して消滅しないこと。すべての意思決定は、人間の感情が引き起こしていること。そのため、他者への想像力を持つことが、人生や仕事を進める上で決定的に重要なこと・・・。読書で学べることに比べたら、一人の人間が一生で経験することなど高が知れている。読書することは、実生活では経験できない『別の世界』の経験をし、他者への想像力を磨くことを意味する。本のページをめくればめくるほど、人間の美しさや醜さ、葛藤や悩みが見えてくる。そこには、自分の人生だけでは決して味わえない、豊穣な世界が広がっている。そのなかで人は言葉を獲得していくのだ」。
「僕はかねがね『自己検証、自己嫌悪、自己否定の3つがなければ、人間は進歩しない』と言っている。自己検証とは、自分の思考や行動を客観的に見直し、修正すること。自己嫌悪とは、自意識過剰さや自己顕示欲を恥じ、自分の狡さや狭量さ、怠惰さに苛立つこと。そして自己否定とは、自己満足を排し、成長していない自分や、自分が拠って立つ場所を否定し、新たな自分を手に入れることだ」。
「そうした感情を味わえるのが、まさしく読書なのだ。本を読めば、自分の人生が生ぬるく感じるほど、苛酷な環境で戦う登場人物に出会える。そのなかで我が身を振り返り、きちんと自己検証、自己嫌悪、自己否定を繰り返すことができる。読書を通じ、情けない自分と向き合ってこそ、現実世界で戦う自己を確立できるのだ」。
「もちろん、仕事のために必要な情報を本から取得するのは悪いことではない。しかし、僕が考える読書とは、実生活では経験できない『別の世界』の経験をし、他者への想像力を磨くことだ。重要なのは、『何が書かれているか』ではなく、『自分がどう感じるか』なのである」。
「読書を通じて数々の言葉に出会い、そこから人生の指針となる言葉をすくい上げ、肉体化し、実践していけば、言葉を自分のものとして獲得できるのだ」。
「正確な言葉がなければ、深い思考はできない。深い思考がなければ、人生は動かない」。
これらを踏まえて、読者としての見城、編集者としての見城の人生を切り開いてきた本が、時系列で挙げられています。
私は見城より6歳上ということもあって、読書体験は共通するものが多いのですが、当然のことながら、読書の好みにはかなり異同があります。そういう中で、見解が一致する記述に出会うと嬉しいものです。例えば、大江健三郎について、「初期の短編小説が面白い」として『死者の奢り』を挙げ、「『飼育』も凄みのある作品だ」と高く評価しています。宮本輝に関しては、「僕がいちばん好きなのは、『避暑地の猫』だ」と断言しています。宮部みゆき作品については、「全部面白いがいちばんすごい作品は『火車』だと僕は思っている」と述べています。
見城の死に対する考え方、姿勢が率直に語られています。「僕は今年で68歳になる。この年齢になると、死ぬときのことを考えるようになる。人一倍濃密な人生だったと思うが、それでも過ぎてみればあっという間だ。『人生は一夜の夢よ』である。出版界の未来とか、電子書籍がどうなるとか、そんなことはどうでもいい。僕はエゴイストだから、目下の関心事は『どうやって微笑しながら死ぬか』。それだけだ」。「現実の我々は、死に向かって一方通行に進んでいる。明確な期限が定められているからこそ、限られた時間の生産性を高める必要が生じ、貨幣や法律といった社会システムができた。同時に、死の恐怖はさまざまな作品や思想をもたらした。我々が生きている世界は、死によって規定されていると僕は考える」。だから、死の瞬間に「自分の人生はまんざらではなかった」と思って目を閉じたいと、日々、頑張っているというのです。この考え方、姿勢には深い共感を覚えます。