天智は大友に次期大王位を継がせようとしていなかったという仮説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1383)】
初めて訪れた千葉・柏の増尾は、昨夜の雪が残っています。増尾城跡のカワヅザクラが花芽を付けています。林間の道でルリビタキの雄に遭遇したのに、写真を撮れず、残念無念! 幸谷城跡は雪に覆われています。萬福寺のウメが白い花を咲かせています。妙蓮寺では、濃桃色のウメの花が咲き始めています。長い参道の奥に廣幡八幡宮があります。道に迷い困っていた時、犬の散歩中の落合氏に助けられました。因みに、本日の歩数は23,391でした。
閑話休題、『内戦の日本古代史――邪馬台国から武士の誕生まで』(倉本一宏著、講談社現代新書)では、邪馬台国から前九年・後三年の役まで、日本の古代の内戦が扱われています。
壬申の乱について、驚くべきことが書かれています。「古代史上最大の戦乱である壬申の乱は、国家成立史上の観点からも大きな意義がある。天智の構想していた大王位継承プランは、卑母(伊賀采女宅子娘)から生まれたことによって大王位継承権がなかった大友王子に次期大王を継がせようというのでは、けっしてなかったはずである。その当時までに大王位に即いた者の母氏は、王族を除くと葛城集団や蘇我氏といった有力中央豪族に限られていた。だいたい当時の慣例として、大王位に即くには30歳程度の年齢と統治経験が必要とされていたのであり、壬申年当時で25歳に過ぎなかった大友は、即位するにはまだ若過ぎた。天智としては、同母弟の大海人王子(後の天武)を中継ぎとして即位させ、その次に世代交代をおこなう際に、大友の子である葛野王(母は天武王女の十市女王)や、大海人王子の子である大津王(母は天智王女の大田王女)か草壁王(母は大田王女同母妹の鸕野王女)という、いずれも自分の血を承けた王族への継承という選択肢、あるいはもう一代中継ぎとして自分の王女である鸕野王女(後の持統)を想定していたものと思われる」。
「となると、葛野王や大津王であっては困るのは、鸕野王女ただ一人であったということになる。大海人王子を中継ぎとして、確実に自分が産んだ草壁王へと継承させたいという鸕野王女の思惑を推察すると、まず何としても大友王子を斃して葛野王を排除する必要性を感じていたであろう。そしてその次に、大海人王子の子のなかでの草壁王の優位性を確立する必要があった。九州の地方豪族から生まれた長子の高市王は、大王位継承に関してはまず問題ないとして、草壁王即位の障碍となるのは、かつて正妃的存在であった大田王女が産んだ大津王であったはずである(大田王女はすでに大津王を出産した後に死去していた)。鸕野王女にとって、大友王子を斃し、同時に草壁王の優位性を確立し、さらには大津王を危険にさらすための手段として選ばれたのが、武力によって近江朝廷を壊滅させること、そしてその戦乱(=壬申の乱)に自身と草壁王をできるだけ安全に参加させるということであった」。母の執念は実(げ)に恐ろしきかな。
「大海人王子としても、自分の後に、大友王子に後見された葛野王が即位するよりも、大津王や草壁王に継承させた方が望ましいわけであり、この戦争計画に一も二もなく荷担したのであろう」。
壬申の乱に勝利後、「天武にとっては、機内を武装化した『軍国』体制の下、国家という機構的な権力体を組織し、皇族や諸豪族をそのなかに再編成することが、最大の目標となったのである。それはいわば、二度と『壬申の乱』を勃発させない体制の構築をめざすものであった」。
著者は、「日本は戦争を(ほとんど)しなかった国」だったということを強調しています。「(平将門と藤原純友の天慶の乱は)たしかに未曽有の戦乱であったとはいっても、これくらいの規模のものなのである。逆に言えば、日本古代においては、これくらいの規模の内戦が、最大級なのである。世界史的な視点で見た場合、これは逆に日本古代の平和さを浮かび上がらせることになる」。
「そして天慶の乱を鎮圧した藤原秀郷・平貞盛・源経基の子孫たちが、それぞれ『兵(つわもの)の家』として中央軍事貴族の地位を獲得し、その配下で将門や純友を斃した者たちの子孫が『武士』となって、日本に中世武士社会を生み出すことになるのである。その意味では、天慶の乱は、日本の歴史に大きな転換点を刻み込む画期となったと言えよう」。