ひとり生き残った白虎隊士・飯沼貞吉の生涯・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1390)】
東京・文京の小石川後楽園はウメの季節を迎え、さまざまな色合いのウメが咲き競っています。因みに、本日の歩数は13,558でした。
閑話休題、歴史小説『ひとり白虎――会津から長州へ』(植松三十里著、集英社文庫)の主人公は、白虎隊士として自決を図るも蘇生し生き残った実在の飯沼貞吉です。
「『私は会津藩の物頭役(四百五十石取り)、飯沼時衛一正の次男として、会津城下で生まれ育ちました。戊辰戦争の際に、父は朱雀隊の中隊長として出陣し、その後、青龍一番寄合組の中隊長に替わりました』」。
「(十五歳の)貞吉は仲間内で最年少だ。白虎隊の入隊規定は十六歳以上だが、どうしても加わりたくて、上背があるのをいいことに、年齢を偽ったのだ」。
「会津盆地の外れにある飯盛山で、白虎隊の一部が集団自刃し、貞吉も脇差で喉を突いたものの、ひとりだけ蘇生してしまった」。
江戸の謹慎所で、生き残りと謗りを受ける貞吉に、捕虜受け取り責任者・楢崎頼三が、自分の故郷・長州へ一緒に行こうと誘います。会津の敵であった長州で、もがき苦しみながらも、恩愛に触れ、成長していきます。
19歳となった貞吉は藤沢次謙から、「東京に電信修技場という訓練所ができるそうだ。電信の通信士を育てるところで、入るのに試験はあるが、おまえなら大丈夫だろう。そこで半年ほど修業して、一定の成績を修めれば、工部省で電信の仕事につける」と言われます。
「貞吉は抜群の成績で半年の修業を終え、最初は通信士見習いとして、工部省電信寮という役所に出仕が決まった」。
「長年、貞吉は一通信技師として働いてきた。緻密な仕事ぶりは評価されても、長州や佐賀の出身者に比べると、やはり出世は遅かった。だが分離によって省内の部門が増えたこともあり、ようやく去年、東京工務局の第一課長になった。三十四歳での初めての大きな昇進だった」。
「(白虎隊の)仲間たちは十六年か十七年の短い生涯を閉じた。貞吉ひとりだけが、こうして長い年月を生きてきた。それも楽ではない年月を。・・・自分は伝えなければならない。仲間たちは武士の本分を明らかにしようとして、死を選んだのだと。・・・明治二十六年になると、中村謙という男が、白虎隊の話を本にしたいと取材にやって来た。貞吉は包み隠さずに話した。特に自刃の理由は、間違いなく書いて欲しいと念を押した。『白虎隊事蹟』という題名で、本ができたのは、その翌年のことだった。それは多くの人に読まれ、自刃から二十六年を経て初めて、事実が明らかになったのだった」。
「貞吉は、四年後に六十歳を迎えたら、仕事を辞そうと考えている。十九歳で工部省に出仕して以来、それなりの役職に就くことはできたが、生涯、一通信士という意識を捨てたことはない」。
貞吉は、昭和6(1931)年、76歳(満)でこの世を去りました。
貞吉が逆境にめげず生き抜いたこと、恩人たちに恵まれたこと、白虎隊の仲間たちへの思いを持ち続けたことが、印象に残りました。
個人的なことだが、貞吉の弟の曾孫が、私の従弟なのです。