榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

邪馬台国時代から律令国家時代までの、渡来人の歴史を俯瞰できる一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1496)】

【amazon 『渡来人と帰化人』 カスタマーレビュー 2019年5月24日】 情熱的読書人間のないしょ話(1496)

今朝は、コジュケイのチョットコイ、チョットコイという高らかな鳴き声で目が覚めました。ホタルブクロが釣り鐘状の赤紫色の花、白い花をぶら下げています。アジサイが青い花を咲かせています。ナツミカンの白い花が芳香を放っています。柑橘類はいずれも、似通った白い花を咲かせ、同じような香りがします。黄色いオダマキ、いろいろな色合いのクレマチスも頑張っています。夕刻から、東京・中央の日本橋で、三共時代の仲間たちと楽しい一時を過ごしました。因みに、本日の歩数は10,849でした。

閑話休題、『渡来人と帰化人』(田中史生著、角川選書)では、「渡来人」を、中国大陸や朝鮮半島から「倭」「日本」に移住・定住した人ではなく、「倭」「日本」への移動者と定義しています。従って、外交使節や渡来の商人たちも含まれることになります。

「邪馬台国の時代も、留住する渡来人の活躍がよくみられ、漢字の使用痕跡も確認される。当時それは、博多湾を中心に形成されていた。・・・(福岡市の)西新町遺跡に居留の痕跡を残した渡来人も、一大率の管理を受けながら、一定期間居留し異文化間を仲介した交易者だったのだろう」。

「5世紀の倭国で、中国系の姓と文化を色濃く持って活躍した渡来系の人々は、同盟国百済から渡来し、それほど年月が経たない一世者か、せいぜい二世者程度にとどまったと考えられる」。「倭の五王の時代、列島の渡来人は中国系ばかりではない。むしろ朝鮮系の人々の方が圧倒的に多かった。・・・朝鮮系渡来人は、倭人首長層が共同体を支配する上で有効な技術を様々にもたらした」。

「(東漢氏や秦氏などの渡来系氏族は)実際の血縁的同族集団というより、出身地域や職能を踏まえて(倭)王権が組織した、擬制的な同族集団だった。・・・王権は、渡来の技術・文化を継承する渡来系集団を編成し、その担い手を安定的に供給する体制を築いた。各地の首長層が地域支配に有効な渡来の文化や技能者の確保に苦慮するなか、倭人社会における渡来文化の分配センターとしての機能を高めていったのである」。

「(和歌山県橋本市の)隅田八幡神社の人物画象鏡銘は、(6世紀の初め、百済の)武寧王が、倭国との関係、なかでも次期大王の有力候補者である継体との関係を重視したことを示すものである。継体もこれに応え、即位後は百済との連携に重きを置いた外交を展開し、百済は武寧王の時代、ようやくその勢力を盛り返した。・・・倭国はとにかく百済の復興支援に注力していたことがわかる。中国南朝に頼れなくなった倭王権が、友好国百済の復興を重要な外交政策と位置づけていたことは明らかだろう」。

「(663年の白村江の敗戦後)倭国には倭軍に参加した引き揚げ者とともに、百済人を中心に朝鮮半島からの亡命者が次々と渡来してきた。その数は少なく見積もっても数千人規模。階層も王貴族層から僧・尼、その他一般の人々と幅広い」。

「天智の時代、亡命渡来人には定着を前提に、移住地において田が支給され、そこで戸籍につける手続きも始まった。・・・また、東国への本格的な移配も始まった。このように、律令的な思想と体制を意識した帰化人は、天智の時代、百済・高句麗滅亡後の亡命者渡来人たちを移住者として受け入れる過程で誕生したと考えてよさそうである」。

本書のおかげで、渡来人の全体像を俯瞰できるようになりました。