本能寺の変の1年10ヵ月前の信長の査定では、1位・光秀、2位・秀吉だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1738)】
15羽ほどのシジュウカラが群れています。ロウバイがびっしりと花を付けています。因みに、本日の歩数は10,499でした。
閑話休題、『信長軍の司令官――部将たちの出世競争』(谷口克広著、中公新書)を読むと、部下の査定に格段に厳しい織田信長の下で出世することがいかに大変なことかが、よく分かります。部将たちにとっては、織田軍の方面軍司令官になることが出世競争のゴールだったのです。
「信長の晩年における(天下)統一戦は、各方面軍に任せるようになっている。方面軍司令官は、それぞれ担当地域でその方面の戦国大名に対処する。北陸・関東・中国・四国の制服が並行して進捗する形になっていた。方面軍は万余の軍兵を擁し、名だたる戦国大名と単独で矛を交えるのだから、その司令官は並大抵の者には務まらない。戦国の世の一流の武将たちといえるだろう。並み居る信長の家臣の中でも、延べ6人(柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益ら)しか到達しなかった究極の地位である。しかし逆に、これほどの役割を6人もの家臣が果たしていたと考えると、信長の家臣団の能力と勤勉さはすばらしいと評価できる。これは信長の人事の巧みさによる。大軍の指揮という重責に堪えうる人物と見込んだならば、躊躇なく抜擢する。言い古された評だが、信長の能力主義、合理主義がその背景にある。家臣たちは、与えられた任務を全力を尽くして務め上げ、さらなる抜擢を待つのである。信長の巧みな人事だけでなく、それに見事に応える優れた家臣が大勢いたからこそ、天下統一はスピーディーに進んだといえる」。
天正8(1580)年4月、丸10年間続いた本願寺との戦い(石山合戦)が終わります。その4ヵ月後の8月12日、信長は本願寺攻めの司令官であった佐久間信盛・信栄親子に、十九ヵ条に亘る自筆の折檻状を突き付け、彼らを高野山に追放してしまいます。<一、父子五ヶ年在城の内に、善悪の働き(何らかの功績)これなき段、世間の不審余儀なき子細どもに候。我らも思ひあたり、言葉にも述べがたき事>と、容赦がありません。
注目すべきは、第三条です。<丹波国日向守(明智光秀)働き、天下の面目をほどこし候。次に羽柴藤吉郎(秀吉)、数ヶ国比類なし。然して池田勝三郎(恒興)小身といひ、程なく花熊(花隈)申し付け、これまた天下の覚えを取る>。続く第四条に柴田勝家が登場します。<柴田修理亮、おのおのの働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑について、この春賀州(加賀)に至り、一国平均に申し付くる事>。
「この折檻状から、天正8年当時の信長軍について、次の事実が知られる。第1には、佐久間の率いる大坂方面軍が、7ヵ国にわたっている特殊な軍団だったことだ。第2には、佐久間の引き合いとしてあげている部将の信頼度についてである。1に明智、2に羽柴、それに大身を代表して柴田、小身では池田がそれぞれ称讃されている。丹波・丹後の平定に5年間も費やした明智よりも、播磨・但馬、さらには備前・美作・因幡をも支配圏に置きつつある羽柴のほうが手柄は上と思われるが、信長の評価は必ずしもそうではないらしい。いずれにしても、この頃の織田家臣団の中で活躍の目立った双璧は、明智・羽柴の2人だったといえる」。
この折檻状から僅か1年10ヵ月後の天正10(1582)年6月2日に、本能寺の変が起こっているのです。信長に、光秀に、あるいは両者間に、どのような変化があったのでしょうか。
本書を読み終わって、より上位のポストを目指して懸命に頑張っていた三共(現・第一三共)時代の自分を思い出してしまいました。