平安時代の検非違使別当・藤原公任の事件簿には恐るべき事件の数々が・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2238)】
ヘメロカリスの園芸品種・ヒメキスゲ(写真1~5)が咲いています。さまざまな色合いのタチアオイ(写真6~16)が咲き競っています。
閑話休題、『平安朝の事件簿――王朝びとの殺人・強盗・汚職』(繁田信一著、文春新書)には、平安時代中期に検非違使の長官である別当を6年に亘り務めた藤原公任が担当した事件の数々が記されています。
藤原公任といえば、王朝時代を代表する文化人であり、『和漢朗詠集』を編纂したことで知られるが、彼が有職故実の書『北山抄』の草稿を書くとき原稿用紙として用いたのが、不要になった検非違使時代の公文署の裏面だったのです。この偶然が幸いして、私たちは、遠い平安時代の事件簿を垣間見ることができるわけです。歴史学者たちの間では、「三条家本北山抄裏文書」と呼ばれています。
「『検非違使別当藤原公任の事件簿』に見られる地方の暮らしは、地方に盤踞する鎌倉武士たちの曽祖父の曽祖父たちのおかげで、かなり刺激的なものであった。『三条家本北山抄裏文書』の公文書群に登場する人々は、ある者は、海辺に暮らす武士によって、乗っていた船と船の積み荷の全てとを奪われたうえに、自身の生命まで脅かされたのであり、またある者は、手下を使って農地を荒らす武士たちを咎めたところ、逆襲に遭って負傷者を出しているのである。さらに言えば、『検非違使別当藤原公任の事件簿』には、地方の武士たちが共謀して都から下向した公職を帯びる下級貴族を亡き者にした殺人事件までが登場する」。史実に基づいているだけに、いずれの事件も臨場感に満ちています。
個人的に興味深いのは、「貴族に成り上がる庶民」、「受領たちの致富の道」、「侍と武士との関係」です。
「(この文書から)窺われるように、王朝時代において、(従七位上という最低限の)貴族という身分と庶民という身分との間には、絶対的な壁はなかったのだろう。おそらくは、給(きゅう。一種の官職売買の制度)や成功(じょうごう。朝廷に対して直接、経済的な貢献をした者に官職を与える制度)を使って、経済力のある庶民は、最下級の貴族に成り上がることが可能だったのである」。
「(中級貴族の)受領たちの中には、支払わなければならないものを意図的に支払わないで済まそうとする者もいた。・・・(藤原)景斉は、朝廷を牛耳る道長・頼道への支払いだけ済ませて、それ以外の支払いには、初めから応じる気がなかったのだろう。・・・かように、王朝時代の受領たちは、朝廷から課された義務の多くを、どうにかして回避しようとするものであった。その結果として受け取れるはずのものが受け取れなくなる人々には迷惑な話であるが、ここに受領たちの致富の道があったのである」。
「貴族家に仕えるにしても、侍あるいは女房として仕える人々は、けっして庶民ではなかった。藤原道隆や藤原道長が自家の姫君に女房として仕えさせた清少納言や紫式部が中級貴族家の娘であったのと同じように、上級貴族家に侍として仕えるのは、どうかすると中級貴族家の息子であって、そうでなくても、少なくとも下級貴族家の息子か豪族家の息子かではあったのである。また、中級貴族家に仕える侍にしても、下級貴族家もしくは豪族家の出ではあった。また、中級貴族である受領に郎等として仕えたのも、多くの場合、下級貴族か豪族かほどの人々であった。郎等になる人々と侍になる人々とは、重なっていたのである。あるいは、受領のもとでは、侍は郎等であり、郎等は侍であって、両者の間に特段の区別は見られなかったのかもしれない。・・・後世、『侍』という言葉が武士を意味するようになるには、既に王朝時代において侍たちの一部が武士であったことに端を発する」。
王朝時代は、上級貴族だけでなく、武士(武者<むしゃ>、兵<つわもの>>)として生きた下級貴族や地方豪族によっても動かされていたというのが、著者の主張です。