『草枕』の那美のモデルとは、藤原不比等の妻の内助の功とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2667)】
ツクツクボウシの抜け殻(写真1、2)を見つけました。ツクツクボウシの抜け殻とヒグラシの抜け殻は似ているが、左右の複眼の間(頭楯)が突出するのがツクツクボウシ、突出しないのがヒグラシ。キマダラカメムシの幼虫(写真3)、チャバネアオカメムシ(写真4、5)、アオバハゴロモ(写真6)、その幼虫(写真7、8)、ミドリグンバイウンカ(写真9)、オオヒラタシデムシ(写真10)、ヒダリマキマイマイ(写真11、12)をカメラに収めました。ゴーヤー(写真13~15)が実を付けています。
閑話休題、『読書の森で寝転んで』(葉室麟著、文春文庫)で、とりわけ印象に残ったのは、「『草枕』夏目漱石」、「山本周五郎の悲願」、「『女帝の世紀』の演出者」――の3つです。
●『草枕』夏目漱石
「漱石は熊本の第五高等学校で教鞭をとっていたころ、休日に山を越えて小天温泉へ湯につかりにいった。この温泉での体験が『草枕』となったのだ。当然、(ヒロインの)那美にもモデルがいた。――前田卓(つな)である。漱石が小天で泊まっていたのは、地元の名士、前田案山子(かがし)の温泉付き別荘だった。・・・その次女だった卓は父に武芸を教えられ、民権家が集まる家で、男女同権論を唱える女性民権家の岸田俊子を知った。卓は一度、民権運動家と結婚したが相手の封建的な考えがあわずに離婚、家に戻っていた。漱石が小天温泉に来たのはそのころだ。事実なのかどうか。主人公は風呂場で裸身の那美と出会う。・・・わずかなふれあいだったが、後に漱石は東京で卓と再会する」。
「父親の案山子の没後、卓は上京し妹の夫で革命運動家の宮崎滔天の紹介で中国の革命家、孫文や黄興が東京で結成した『中国同盟会』の機関誌『民報』を発行する民報社に住み込みで働くことになった。革命家や中国人留学生を親身になって世話をした。中国人革命家の密航を助けることもあったという。上京後十年ほどして卓は漱石を訪ねた。漱石は卓と中国人革命家との関わりに驚き、『草枕も書き直さねば――』と言った」。おかげで、ともすれば不思議な印象を与える那美という女性のモデルの実像に触れることができました。
●山本周五郎の悲願
「(『樅ノ木は残った』の主人公・原田甲斐は)また伊達家中での騒動のただ中に戻っていく。人間相手の砂を噛むような戦いが甲斐を待っているのだ。ところで千六百枚に及ぶ長編は甲斐を慕う清純な娘、宇乃が、樅ノ木に向い、甲斐の幻を見るところで終わる。<――宇乃は云いようもなく激しい、官能的な幸福感におそわれ、自分のからだのそこが、湯でもあふれ出るように、温かくうるおい濡れるのを感じた。甲斐はもう宇乃の前に来てい、宇乃は甲斐のほうへ、両手をそっとさし伸ばした>。現世はどれほど、醜悪で過酷であろうとも、それを超越していく愛は存在するのだという主張は、闘い続けねばならない人間を見つける作者(山本周五郎)の『悲願』だったという気がする」。かなり以前に読んだ『樅ノ木は残った』の終末が、こんなに官能的だったとは! 久しぶりに『樅ノ木は残った』を読み直したくなってしまいました。
●「女帝の世紀」の演出者
「藤原不比等の政治家としての最大の特徴は女性の活用にすぐれていたということだ。政治への女性起用率では日本史でもトップだろう。女性をトップとして政治を行ったのだ。女性天皇の持統天皇によって見出されて官僚として出世した不比等にとっては当然だが、トップが女性であることのメリットを熟知していたに違いない。不比等が仕えた女帝は持統、元明、元正天皇だが、不比等没後の女帝、孝謙(称徳)天皇は不比等の孫である。不比等はいわゆる『女帝の世紀』の演出者だった。不比等は大宝律令を完成させていくだけに、特に論理的な思考に長けた人物であり、なにより理性的な人格だったのではないかと思える」。
「だが、なぜ不比等がこれほど女性勝に長けていたかというと、プライベートに秘密があったようだ。最初の妻を若くして病で亡くした不比等はその後、宮中に仕える当時のキャリアウーマンとも言える女官の県犬養(橘)三千代を妻とする。・・・三千代の内助の功がなければ不比等の政治は実現しなかったのではないか。だが、それは三千代が不比等に尽くしただけのことではないかもしれない。なぜなら不比等は、三千代との間に生まれた娘、光明子を首皇子の妻としていた。このとき、不比等の野望は三千代の夢ともなっていたのだ。自らの娘が皇后となった姿は、宮中に仕えてきた三千代にとって何よりも目にしたいものだった。光明子が産んだ子が天皇になるという可能性も三千代をさらに奮い立たせたに違いない、三千代の献身には十分な理由があった。・・・それ(光明皇后の娘が孝謙天皇となること)は不比等と三千代がパートナーとして力を合わせて築き上げた女帝というシステムの完成だった」。藤原不比等の辣腕ぶりは知っていたが、その妻・三千代も夫同様、強かな人物だったとは知りませんでした。
講義録の中で、池上冬樹の語りかけに、葉室がこう答えています。「●池上=石川淳といってもいまの若い人たちはご存じない人も多いでしょう。わかりやすく言うと、丸谷才一さんのお師匠さんです。丸谷さんが最も尊敬する文人、といっていいでしょう。物語の流れも波瀾万丈でものすごいし、圧倒的な文章の勢い、リズム感がすばらしい。いっぽうで、森鴎外の伝記とか、『渋江抽斎』なんかの評論も書いている。こちらもすばらしい。漢詩についても、きっちり批評できた人です。●葉室=日本の文人って、大正期にはすごく教養が高かったんですが、それを戦後まで引き継いだのはおそらく石川淳ただひとりでしょう」。私の敬愛する丸谷才一が最も尊敬する人が、過日読んだ『紫苑物語』(講談社文芸文庫)の著者・石川淳ということを初めて知りました。