榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

源頼朝死去後の、血で血を洗う御家人間抗争の実態・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2756)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年11月2日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2756)

ジョウビタキの雌(写真1、2)、キタテハ(写真3)をカメラに収めました。ムベ(写真4)、カリン(写真5、6)が実を付けています。誰が置いたのか、丸太で作られたテーブルに、トチノキの実が一つ(写真7、8)。ツワブキ(写真9~11)が咲いています。イロハモミジ(写真12、13)が紅葉、ラクウショウ(写真14)が黄葉しています。

閑話休題、『鎌倉幕府抗争史――御家人間抗争の二十七年』(細川重男著、光文社新書)で、とりわけ興味深いのは、梶原景時事件、阿野全成殺害事件、比企の乱――の3つです。

●梶原景時事件
「景時は源義経を(源)頼朝に讒言した悪人として有名で、たしかに『義経記』を見ると景時の義経への悪口・讒言はヒドイものである。しかし、『義経記』は軍記物語、いわば戦争小説であって、そのまま記述を鵜呑みには出来ない」。

「頼朝は景時の性格をわかったうえで、その官僚としての才能を買って使っていたが、頼朝薨去の頃には、御家人たちの中での景時の評判は地に墜ちていたようだ」。

「(景時弾劾に)これだけ広範囲な、しかもタイプの異なる人々が一晩で集まったのであるから、梶原景時が御家人たちから蛇蝎のごとく嫌悪されていた事実は動かしがたい。頼朝の比類無き信頼を得て権勢を振るった景時であったが、庇護者の死によって、彼への怨嗟と憤懣が一挙に表面化した」。

「頼朝の権臣梶原景時は呆気なく滅亡した。思いがけない遭遇戦での最期であり、景時としても不本気であったろう。そして十三人合議制メンバーを含めた御家人たちは、この事件によって、自分たちの対立に因する仲間殺しを体験してしまった」。27年間に亘る御家人間抗争の幕が切って落とされたのです。

●阿野全成殺害事件
全成は、義経の同母兄にして頼朝の異母弟で、頼朝の妻・北条政子の妹・阿波局を妻とし、源頼家の弟・千幡(後の源実朝)の乳母夫となっていました。「その全成が建仁3(1203)年5月19日、謀反を企てたとして甥である鎌倉殿頼家の命を受けた甲斐源氏の伊沢(武田)信光に捕らえられた」。その後、全成は下野で八田知家に討たれてしまいます。

「謀反計画を理由に全成が頼家の命で討たれ、息子の一人も縁座で殺された。だが、全成の謀反計画は事実であったのか、大いに疑問がある。・・・頼家は外戚である北条氏、特に母政子を屈服させることを目的としていたと推定される。・・・頼家は叔父であり頼朝の弟である全成を殺害することによって、鎌倉殿としての権威と権力を確立しようとしたのではないか」。

「頼家は『人の心を掴む』という才能で、父頼朝に遥かに及ばなかった。だが、いわば『生まれながらの鎌倉殿』である頼家は、その事実に不幸にも気付けなかった」と、著者は頼家に辛辣です。

●比企の乱
「全成誅殺から3ヶ月足らずの後、建仁3年9月に比企の乱が勃発する。比企の乱は、北条氏と比企氏、より限定すれば北条時政と比企能員による鎌倉殿外戚位の争奪戦である」。

北条氏はもともと伊豆の小土豪に過ぎず、鎌倉殿外戚が唯一の政治基盤である時政に対し、頼朝の乳母・比企尼の一族である比企氏の勢力は強大でした。「ゆえに、ありていに言えば比企能員は北条時政をナメており、時政が9月2日の段階で自分を狙うとは思ってもいなかったのではないか。9月2日の能員の行動が、それをよく示している。比企の乱の結末は、比企能員が北条時政の策士としての実力を読み誤った結果と言うことができる。そして比企能員殺害の直後に小御所襲撃はなされた。比企の乱は、綿密に計画された暗殺と奇襲攻撃の合わせ技である。比企氏は有していた軍勢を集めることなく滅ぼされたのであり、本来の実力を発揮出来ないまま敗れたのであった」。

比企の乱により、妻・若狭局の父・能員を失った頼家は鎌倉を追放され、配流された伊豆国修禅寺で、23歳で死去します。「『愚管抄』巻六・『保暦間記』によれば、配所の風呂場で睾丸を掴まれ、首を紐で絞められるという斬殺であった」。

自分の考えを鮮明に記述するという著者・細川重男の流儀が本書でも貫かれているので、爽快な読後感を味わうことができます。