新潮社校閲部の部長の手になる日本語論は、大いに勉強になりました・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2829)】
メジロはミカンとリンゴのどちらが好きなのかしら、という撮影助手(女房)の疑問に答えを出すため、2日間に亘り実験を行いました。昨日も今日も、2羽とも、メジロたちはリンゴには見向きもせず、ミカンを選択しました(写真1~8)。ホウライシダ(写真9)が自生しています。
閑話休題、『その日本語、ヨロシイですか?』(井上孝夫著、新潮社)は、新潮社校閲部の部長の手になる日本語論です。
勉強になったことがたくさんあります。
例えば、「ルビ(ふりがな)」は難しいということ。「ルビと仮名づかい――本文テキストもルビも新仮名、これは問題ない。しかし、本文テキストが旧仮名の場合、そう簡単には行かない」。
「送りがな」も一筋縄ではいかないということ。
「漢字の使い分け」も厄介だということ。「日本語には、一つの語を表わすのに二種類以上の漢字が存在する場合が多く、その使い分けがまた微妙で校閲者泣かせです。手元にある共同通信社の『記者ハンドブック』(第10版)を見ると、『かたい』という形容詞の表記例として、『固いことを言わずに』『堅苦しい』『態度が硬い』とあります。ええっ、どこが違うの?と思わず口走りたくなります。これに似た例はいくつもあります」。因みに、私も『記者ハンドブック』(第13版)を愛用しています。
「仮名づかい今昔」に、興味深いことが書かれています。「歌謡曲のタイトルに『シクラメンのかほり』というのがありますが、『かほり』(香り)というのは旧仮名としてはおかしい。旧仮名は『かをり』です」。
「グローバル時代の翻訳」には、こういう一節があります。「外国語問題を解決する時に重要なのは、それを日本語のカタカナでどう表記するか、ということについて自分なりの指針を持つ、ということです。耳で聞こえるとおりに表記する『表音主義』と、スペリングをカタカナに反映させる『文字転写主義』を、どのようなバランスで取り入れるか(時にはその折衷形も含めて)。・・・(たとえば)ロシア語のoは、アクセントがあれば『オ』、無ければ『ア』と発音します。したがってДостоевский(ドストエフスキー)は表音的には『ダスタイェーフスキー』となります。文字転写なら『ドストイェヴスキィ』くらいの感じです。どうでしょうか。ドストエフスキーはやはり『ドストエフスキー』にしたいところですよね。そうすると、表記方法が混在してしまいますが、いいのでしょうか? 結論を言えば、それでよいのです。折衷主義は学問では問題があるかもしれませんが、一般書籍の世界では、原則論に走りすぎるとあまりいいことはありません。この場合、すでに日本で定着している表記はそのままとし、よく耳にする常套句や会話文などは表音的に、またアクセント等判定しにくい要素があるときは文字転写的に処理するのが無難な解決でしょう」。外国語をカタカナでどう表記すべきか、しょっちゅう悩んできた私にとって、このアドヴァイスは何よりの救いになりました。