榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

永田鉄山が斬殺されていなければ、東條英機の出番はなかった・・・【情熱の本箱(109)】

【ほんばこや 2015年10月27日号】 情熱の本箱(109)

永田鉄山斬殺事件は陸軍の派閥抗争のとばっちりぐらいに考えていた私が迂闊であったことを、『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』(早坂隆著、文春新書)が教えてくれた。

陸軍省軍務局長という陸軍の中枢にあって、永田鉄山は何を目指していたのだろうか。

関東軍が何らかの軍事行動に出るのではないかという懸念を強く抱いていた永田は、関東軍に隠忍自重を求めていたが、関東軍の石原莞爾や板垣征四郎らは、満州での独自の軍事行動を秘密裏に進め、満州事変を起こしてしまう。永田は、関東軍のこれ以上の進軍を断固として制止しようと努めるが、関東軍は遂に満州国建国を実現してしまうのである。

満州国について、永田は部下にこのように語っている。「他国の領土を占拠して満州国を建設することは、民族意識の上からみて穏当ではない。それは4億の中国人を敵に廻し日支親善に超え難い溝を造るものだ。決して日本の得策とならない。だから満州は成るべく早く中国人の手に渡すべきだ」。

永田は、武力によるクーデターという非常事態を用いての革新運動は根底から否定し、あくまでも「憲法の範囲内で合法的に国家の改造を進めていくこと」が重要だと考えていた。永田が遵法精神に厚い軍人であったことは、「急激の害を避けつつ漸進的過程に於て而も明るく力強く行詰りの打開を策する所に苦心存じ」という彼の言葉からも明らかだ。

とかく精神論を好む性向の人物が多かった当時の陸軍内において、永田のような徹底した合理主義者は異彩であった。

混迷を深める陸軍をどう立て直すかという最重要課題に取り組む永田の苦悩は続く。

「いつしか永田は、『永田の前に永田なく、永田の後に永田なし』と称されるようになった。永田は遂に『陸軍の至宝』とまで賞賛される存在になったのである」。

永田の絶筆となった意見書、「軍ヲ健全ニ明クスル為ノ意見」の冒頭部では、「この非常時には軍の統制、団結が最も大切である」、「下剋上的な考えを一掃して、(陸軍)大臣中心に行動する必要がある」といった論旨が示され、根幹に永田の危機意識があることが分かる。

相沢三郎陸軍中佐は、なぜ永田を殺さねばならなかったのだろうか。

「昭和7(1932)年の後半くらいから、陸軍内において『統制派』と『皇道派』の対立が顕在化してくる。・・・統制派は『陸軍主流派』と言い換えても良いが、その中心にいたのが永田である。統制派という名前の由来は、『軍内の統制・規律の尊重』という彼らの主張に起因する。一方の皇道派をまとめていたのは荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎といった面々である。皇道派という名前は、荒木が日本軍を『皇軍』と呼んだことに由来する。彼らは、天皇親政による抜本的な国家改造(昭和維新)を主張した。『統制』よりも『改造』である」。皇道派が急進的な革命的改革を志向したのに対し、統制派は現実的な漸進主義こそが組織の歩むべき道だと信じていた。

永田によって劣勢に立たされつつあった皇道派に属していた相沢が、怒りを募らせて、軍務局長室に押し入り、日本刀で永田を暗殺したのである。

永田の死は、その後の日本陸軍にどのような影響をもたらしたのだろうか。

永田を失った陸軍は、以降、迷走の度合いを一挙に深めていく。

永田斬殺事件の翌年の2月26日に、「天皇親政による昭和維新の断行」を掲げた皇道派の青年将校たちによるクーデター未遂事件――二・二六事件――が起こる。「永田の排除に成功した皇道派が、一挙に実力行使へと踏み切ったのであった」。事件後、昭和天皇に「賊軍」と決めつけられた将校たちが叛乱罪で逮捕されたが、その中には相沢と関係の深かった者たちも多く含まれていた。「二・二六事件が、相沢事件の延長線上にあったことが理解できよう」。

元軍務局軍事課員・池田純久は、このように記している。「永田中将の死は、いわば桶のたががはずれたようなもので、陸軍はバラバラになり、滅茶滅茶になったのである」、「永田中将の死の翌年には、前代未聞の二・二六事件が起こったではないか。そしてその翌年には日本の命取りといわれる支那事件が起こり、陸軍省首脳部に確固たる方針がなく、ズルズルと大戦争へと突き進んで行ったではないか。永田中将が存命していたら、支那事変の発生を未然に防ぎえたであろうことが想像される。そうなっていたら、日本の運命はまったく違ってきたであろう」。

「『陸軍の統制』を信条の基柱としていた永田が、不本意なる急逝を遂げたことは、『昭和史の大いなる転機』となった。『嗚呼、永田がいたら』とは、後に多くの陸軍関係者が呟いた愚痴ならぬ本音である」。

「永田を失った統制派において、俄に頭角を現したのが東條英機であった。東條は生前の永田に心酔し切っていた。永田が存命であったならば、東條を巧みに使いこなすことができたと思われる。・・・東條が演じた役柄を、もしも永田が担っていたとしたら、昭和史の色彩はどのように変化したであろうか。永田が相沢の凶刃に斃れることがなかったとすれば、彼は程なくして陸軍大臣になっていた蓋然性が高い。然らば、その後の陸軍は、また別様の表情を見せたことであろう。歴史に『if』は禁物と言うが、そんな誘惑を抱かせるだけの魅力が、永田にはある」。

一個人による一個人の暗殺が、一国のその後の運命を大きく変えてしまうとは。本書によって、歴史の痛烈さを思い知らされた私。