榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

読書・執筆より古本屋巡り時間のほうが長い読書人のエッセイ集・・・【情熱の本箱(125)】

【ほんばこや 2016年2月9日号】 情熱の本箱(125)

仕事でも私生活でもスピードを旨とする生き方をしてきた私にとって、エッセイ集『閑な読書人』(荻原魚雷著、晶文社)は、自分とは正反対の世界を覗く窓の役割を果たしてくれた。読み進むうちに、私が本当に望んでいたのは、著者のような「閑な読書人」生活だったのだと思い当たった。

「閑がなくても本は読めるというが、閑がなければ、本は探せない。本を読んでいる時間よりも本屋で背表紙を眺めている時間のほうが長いくらいだ。仮にも『閑な読書人』を名のる以上、なるべく『忙しい読書人』が手にとらない本を読みたい。一冊の本に導かれて次の本を読む。読んだ本から脇道にそれて別の本を読む。本を読んで何かを知り、何かを考える。近所の飲み屋で誰かの話を聞いて、何かを知り、何かを考える。この本に収録した文章の大半は、家と本屋と飲み屋と三角形をぐるぐるまわりながら書いたものだ。ぐるぐるまわっているうちに何を書こうとしていたのか忘れてしまうこともあった」。この巧まざるユーモアが本書のあちこちで顔を出す。

「隠居願望」は、「ずっと隠居にあこがれていた。できることなら、浮世離れした人間になりたかった」と書き出されている。「在学中からフリーライターをはじめたものの、原稿料だけでは暮らしていけない。足りない分は我慢したり、古本を売ったり、アルバイトをしたりして、どうにか埋め合わせるのが常だった。下り坂から転がり落ちないようにブレーキを踏みながら、日々をすごす癖がついた。おかげで、その日暮らしとその場しのぎと気晴らしとひまつぶしは得意になった」。この仙人に通じるかのような境地は、何とも羨ましい限りである。

「フリーランスと安全」では、「大学時代にフリーライターの仕事をはじめ、そのまま中退して、今に至る。途中、端折りすぎた。大学を中退した年、バブルがはじけ、仕事をしていた雑誌の休刊廃刊が相次ぎ、半失業者になった。好きな時間に寝て起きて、古本屋をまわって、一日中、本さえ読めれば、それでよかった。ほどほどに働き、そこそこ食っていければいい、社会のかたすみでひっそり暮らしたいとおもっていた」と振り返っている。この気持ち、共感できるなあ。

「想像力の食事」には、面白いことが書かれている。「本を読んでいて、そわそわして落ち着かない。頭に何も入ってこない。そういうときは外に出て、近所の古本屋をまわって、夕飯の食材かなんか買って、すこし遠回りして、家に戻る。それだけですっきりする。『森の生活』のヘンリー・デイヴィッド・ソローに『からだと同じように想像力にも食事を与えなければならない』という言葉がある。ずっと想像力の食事とは何だろうとおもっていた。もしからだとおなじだとすれば、満腹のときには、想像力の食事はいらない。・・・原稿を書くために、たくさんの資料を集める。しかし、集めすぎると書く気がなくなる(先行研究の充実度に圧倒されたりして・・・)。想像力のためには適切な空腹が必要なのかもしれない」。このことは、私にも何度か経験がある。集めた資料に影響され過ぎると、書き上げたものから自分らしさが失われてしまうのである。

「文壇高円寺以前」に、「古本が読めて、たまに友人と酒が飲めて、寝たいときに寝る。あと年に数回、旅行(国内)ができれば、それでいいかな、と」という一節がある。毎日、古本屋回りをするには、高円寺辺りに住まないといけないのだが・・・。

「古本の時間」では、古本の醍醐味が語られている。「内堀(弘)さんは『雑本』という言葉を素敵だとおもう。そこに面白味が潜んでいるという。古書の世界には『他の誰かにとってはどうでもいいようなもの』の中に、その人にとって『身を賭す』に値する大事なものがあるともいう。古本の森の迷路で道を見失う。でも非効率極まりない寄り道こそが、古本の醍醐味なのである」。まさに、そのとおりだ。他の人はともかく、これこそ私の探していた本だと言える本を漸く見つけ出したときの喜びは、格別である。

「杉浦日向子の隠居術」には、こんなことが記されている。「杉浦日向子は勤め人、家族の面倒を見なければならない人のために『晴れ時々隠居』という案を提唱している。現役と隠居のスイッチを切り替えることで人生は豊かになる。たとえば、町中に三畳一間のアパートを借りる。仕事は労働ではなく、道楽と考える。予定を立てず、その日その日のハプニングを楽しむ。効率のよさを求めず、ひと手間かける。新幹線は『のぞみ』や『ひかり』ではなく、『こだま』に乗る。慌てず、急がず、時間をかける。それが杉浦日向子流の隠居術だった。働かなくても食べていける『本隠居』はむずかしくても、『晴れ時々隠居』であれば、会社勤めをしている人にも不可能ではない。休日、あるいはその日の仕事が終わったら、のんびり隠居然として過ごす。隠居の価値観で生きるといってもいい。・・・らくーに、にこにこ生きて死ぬ。これぞ、隠居の理想である」。こういう方法があったとは。勤めていた時に知っていたらなあ。

著者が読書によって学んだことが綴られている。「田辺聖子は『おちこんだとき、気をとり直す才能』も大切だという。・・・気をとり直すための最善の方法は『とりあえずお昼』と『とりあえず寝る』というのが田辺聖子の教えであり、『上機嫌』の秘訣といっていい。『私は人間の最上の徳は、人に対して上機嫌で接することと思っている』」。田辺の考え方に大賛成だ。そして、落ち込んだときは、「とりあえず寝る」を実践して、数々の危機を乗り越えてきた私。

「とくに何かを調べるわけでもなく、ひまつぶしに寝っ転がって本の頁をパラパラめくっているときに、おもわぬ知見に出くわす」。

「教養とは、お金がなくても暇つぶしができること」。これは至言である。

本書によって、自分がいかに「忙しい読書人」であるかを思い知らされ、反省頻りである。