読書の醍醐味が縦横無尽に語られている一冊・・・【情熱の本箱(237)】
『千夜千冊エディション 本から本へ』(松岡正剛著、角川ソフィア文庫)は、読書好きには堪らない一冊だ。
滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』については、こんなことが記されている。「鷗外はね、『八犬伝は聖書のような本である』と言ったんです。こういうことは伊達では言えません。・・・それにしても聖書をもちだされたとは、それも鷗外によってとは、馬琴もさぞかし冥利に尽きるでしょう」。
「馬琴に『天』を感じたのは、鷗外だけじゃない。露伴もまた同じことを感じています。露伴は『馬琴は日本文学史上の最高の地位を占めている』と言いましてね、そのうえで、『杉や檜が天を向いているように垂直的である』と形容してみせた。杉や檜が天を向いているようになんて、露伴らしいですよ。これも伊達や酔狂じゃあ。言えません」。
「馬琴はよく該博な知の持ち主だといわれてきたでしょう。が、そうではない。知識はつねに作品のなかにババッと消えていく。つまりは本物の作家なんです。作家だけの男です。きっかり作家だけ。入れた知識を貯めこんだり、弄んだりは絶対しなかったんだ。それをババッとひとつひとつの作品にほとんど全部使いきるわけだ」。
「高田衛さんの『八犬伝の世界』を読んで、愕然としたんだね。目からウロコが落ちました。・・・『八犬伝の世界』は、口絵の一枚の謎解きから始まっていて、実に示唆に富んでました」。
「それから言い忘れたけれど、『八犬伝』全巻のなかで一番大事な謎を握っているのは『ヽ大(ちゅだい)法師』なんですね。それがわからないと甕襲(みかそ。『日本書紀』に登場する人物)も千夜も千冊もわからない」。
これまで何度も読もう読もうと思いながら手付かずであった『南総里見八犬伝』(曲亭馬琴著、岩波文庫、全10冊)に思い切って挑戦する勇気が湧いてきた。『完本 八犬伝の世界』(高田衛著、ちくま学芸文庫)も併せて読まねば。
アルベルト・マングェルの『読書の歴史』は、松岡正剛から破格の扱いを受けている。「これはものすごい本である。どのくらいすごいかを説明するのが息苦しいほど、この手の本ではダントツだ。類書はとうてい及ばない。いや、類がない」。
「マングェルは、そもそも読書は累積的でなければならず、かつ買いすすみ読みすすんだ書物たちはアタマの中でも書棚の中でも超幾何学のように構成されていくのだという信念をもっている。その書物が理解できるかどうかなどということは問題ではなく、その書物がむしろ『いつまでも未知の領域を含んでいる』ようにおもえることが読書家の醍醐味なんだと信じている。これほどの読書家はあまりいない。すべては偏見に満ちていて、それでいてその偏見こそこれまで多くの読書家が到達したかった目標なのだ。ぼくが見るに、この偏見は書物が誘う蠱惑の条件を幾通りものフェティッシュに区分けできているところに発しているとおもわれる」。
「カフカの読書法こそがカフカ文学の謎をとく鍵だというベンヤミンの見方のどこに限界があるかということ」を論じた箇所と、「紫式部に注目して、これを『壁に囲まれた読書』というふうに仕立てた章」はどうしても読みたいので、『読書の歴史――あるいは読者の歴史』(アルベルト・マングェル著、原田範行訳、柏書房)を「読むべき本リスト」に早速、加えた。
デヴィッド・L・ユーリンの『それでも、読書をやめない理由』では、読書力がテーマになっている。「読書通というものは、音楽通や料理通や骨董通と同じではないが、それに似たところもあって、一冊の本を読み始めるとすぐにその本(その著者)の狙い・技倆・味付け・モダリティ(話し手の判断や認識を示す言語表現)にピンとくる。ついでその一冊が自分にとってどういうものか、だいたいのアディクション(嗜好性)の度合が見えてくる。しかし最終的にアタマとカラダに残るのは、その本その人の魂胆なのである」。
「本書でユーリンは、読書力というものは本を運ぶメディアが『紙であるか、電子であるか』にかかわらず、ひとえに物語の複雑性に分け入るかどうかにかかっていると見ている。・・・ここまでくれば、紙も電子もあるはずがない。書き手がどこまで立ち入ったかということと、読み手がどこまで立ち入る気があるかということ、そこに『熱い読書力』が生まれるかどうか、読書はそこにかかっているとしか言えない。・・・あらためて目勘定でざっと言うと、300ページほどの小説はおよそ10万語の情報量になっている。これだけの言語質量とコンテキストを「熱い読書力」で愉しむには、それなりの書き手と読み手の交歓が要請される。それがうまくいけば『読む心』、すなわち『魂胆』の共有ができあがる」。
「本書の結論は、その書きっぷりが正直で優美であることに反して、けっこう激越なものである。それは『注意散漫のネット社会のなかで、読書こそはこの社会に対する最大の抵抗なのである』ということだった。大いに共感できる結論だ。ぼくにとっても、読書と編集は社会の情報編集に対する抵抗であったからだ」。
「一方、本を読むとは何かというと、読み手はこれを自由に編集してよろしいということだ。どんな本もいろいろな感想をもって読んでもいいということは、読み手は好きに『本読み編集』ができるということである。つまりは読書もまた編集の継続なのである」。
松岡正剛の骨格は、読書と編集で組み立てられていることを再認識させられた。