榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

夢を実らせた竹鶴政孝とリタの真実の愛の物語・・・【リーダーのための読書論(55)】

【amazon 『琥珀色の夢を見る』 カスタマーレビュー 2015年2月12日】 リーダーのための読書論(55)

NHKテレビの連続ドラマ『マッサン』に刺激されて、『琥珀色の夢を見る――竹鶴政孝とリタ ニッカウヰスキー物語』(松尾秀助著、朝日文庫)を読んでみた。

自分の手で本物の国産ウイスキーをつくりたいと夢見る竹鶴政孝が、若くして単身スコットランドに留学してウイスキーづくりの基礎を学び、帰国後、苦労に苦労を重ね、遂に夢を実現するまでが、ドキュメンタリー・タッチで描かれている。

スコットランドのグラスゴー大学で有機化学の講義を受ける25歳の政孝が下宿したのが、後に政孝の妻になるジェシー・ロベルタ(リタ)・カウンが家族とともに住む大きな屋敷であった。「22歳の長女リタはあまり体が丈夫ではなく、家で家事手伝いをするだけだった。学校で音楽とイギリス文学、フランス文学を学んだリタは、物静かで思索的な文学少女タイプだった。・・・政孝が持ってきた日本の鼓に興味を持ち、リタのピアノと合奏することもあった」。二人は恋に落ち、両家の反対を押し切り、日本で結婚生活をスタートさせる。

「『40年前、一人の頭のいい日本人青年が、一本の万年筆とノートでわが国の宝であるウイスキーづくりの秘密を盗んでいった』。1962(昭和37)年、来日したヒューム氏(後の英国首相)はユーモアたっぷりにそうスピーチした。竹鶴政孝のことである。まさに徒手空拳。何の紹介も仲介もなく、その情熱と才覚だけでぶつかっていったのだ」。

「寿屋(現・サントリー)の鳥井信治郎が、浪人していた政孝に『ウイスキーづくりに金は出すから、君にまかす』と言って日本で初めて山崎蒸溜所を建設した」。

「ウイスキーづくりについては建物から機械まで日本では初めてのことで、すべては竹鶴の指示がなければ事は運ばなかった。彼がスコットランドで書いた『実習報告』が大いに役立った。<私はスコットランドに留学していた際どんな小さなことでも絵に書いて、その説明をノートにつけていたが、このノートがなかったらウイスキー工場はおそらくできなかっただろうと当時しみじみと感じたものである>と竹鶴は書いている」。

「何もかも一人で、しかも短期間にやらねばならなかったこの時の苦労について、彼(政孝)はこう述べている。<ウイスキーの仕事は、私にとっては恋人のようなものである。恋している相手のためなら、どんな苦労でも苦労とは感じない。むしろ楽しみながら喜んでやるものだが、その心境である>。リタとの激しい恋を体験した竹鶴ならではの表現だろう」。

寿屋では自分の目指すウイスキーづくりは実現できないと考えた政孝は、独立を決意する。「鳥井に対する敬意を竹鶴は忘れない。<とにかくあの清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないことはいうまでもない>」。「竹鶴政孝の真面目な性格からして、日本で初めての本格ウイスキーづくりを経験させてくれた鳥井信治郎と事業の上で競合することについて道義上許されるか否か、大いに悩んだはずだ」。

北海道の余市でつくられた政孝の第一号ウイスキーは1940(昭和15)年に出荷された。スコットランドでウイスキーづくりを学んでから20年余りの歳月が流れていた。その後、東京進出、そして全国展開を果たすのである。

「竹鶴政孝夫人・リタは大日本果汁(後のニッカウヰスキー)が創業した翌年、1935(昭和10)年には余市に来て生活を始めている。関西や鎌倉の温暖な土地からいきなり余市の厳しい冬の生活を体験したリタは、しかし一切、泣き言を言わなかった。懸命に『日本人』になろうと必死の努力をしたのだ」。

政孝の姉の子で政孝・リタ夫妻の養子になった威が、母・リタについて、「日本人になりきろうとしたおふくろは、言葉はもちろん、料理もかなり勉強したようだ」と語っている。「工場にいる政孝と威にリタは昼食の弁当を毎日のように届けてきた。片道1.5キロの道を40分かけて往復するのだ。その弁当と味噌汁は温かく、威は母のぬくもりを感じながら食べた。それだけに、『家で食事をする』と言いながら、つい帰宅が遅くなってしまったりすると、リタは大変機嫌が悪かったという」。「(リタは)毎日必ず一日のスケジュールをたてて、それを厳密に守る。そういう性格だった」。威の妻・歌子が、リタは「非常に我慢強い人で、自分が痛かったり具合が悪かったりしても、人が辛がっていると助けてあげる人でした」、「覚悟を決めて故国を出てきた以上、戻れないという気持だったんでしょう。日本人になりきろうと一生懸命でした。『この鼻を削りたい。この目の色も髪の色も日本人と同じように黒くしたい』と言っていました」と述懐している。

「1920(大正9)年に結婚して以来、41年間という長い年月を二人は寄り添い、力を合わせて生きてきた。真の純愛を貫いたのである。スコットランドと日本の間に架けられたこの純愛の物語からニッカのウイスキーが生まれ、それが『世界最高のモルト』と認められた。これほど祝福された夫婦の物語は、どんな文豪であろうと創作することはできまい」。以前から、私はニッカのウイスキーを愛飲しているが、政孝とリタの真実の愛の物語を知ってからは、一段と旨く味わい深く感じられる。