榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

アメリカでベストセラー作家となった日本人女性がいた・・・【山椒読書論(313)】

【amazon 『鉞子』 カスタマーレビュー 2013年11月23日】

鉞子(えつこ)――世界を魅了した「武士の娘」の生涯』(内田義雄著、講談社)には、3つの思いがけないことが書かれている。

第1は、杉本鉞子が英語で書いた半自伝的小説『武士の娘』が、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』やアーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』と並んで、米国でベストセラーになったという事実。第2は、ルース・ベネディクトの日本文化論『菊と刀』が、この『武士の娘』の大きな影響下で書かれたという事実。第3は、幕末の長岡藩の筆頭家老であった鉞子の父・稲垣平助が藩の運命を巡って河井継之助(つぎのすけ)と激しく争ったという事実。

なぜ、『武士の娘』がベストセラーとなったのか。「アメリカの読者の多くは、ミステリアスな日本の『武士の娘』への興味から読み始めるが、読みすすむにつれて、このけなげな少女が、内戦(戊辰戦争)に敗れても武士の誇りを失わなかった父母のもとで、厳しい教育としつけをうけて育ったことを知る。そして、さまざまな試練にたえながら、二つの異質な国で果敢に人生にたちむかう、ゆるぎない信念と不屈の精神をもつ女性の半生記に感動するのである。この本は、信念がゆらぎなんとなく不安を感じていた人々の心に、どことなくやさしく響くものがあった。そして、人生には生きる意味があることを思い出させてくれるのであった」。シンシナティ・エンクァイラー紙は、「読む人に喜びを与える自伝だ」と絶賛し、ニューヨーク・タイムズ紙は、「現代に生きる武士道」と褒め称えた。そして、フランス、イギリス、スウェーデン、ドイツ、デンマーク、フィンランド、ポーランド、日本などでも翻訳・出版されたのである。

司馬遼太郎は、こう書いている。「日本には『福翁自伝』のほかにいい自伝がないとおもっていた。ところが数年前、新潟県長岡市の図書館で借りだした杉本鉞子さんの自伝の見事さにおどろかされた。長岡からの帰路、『白鳥』(特急)の車中で読み、京都についたころ読みおえたが、ひさしぶりにいい小説を読んだあとの文学的感動を覚えた。同時におもわぬ書物を発見したよろこびをも覚えた」。

「鉞子は美人とはいわれなかったとしても、魅力的な目をした気品ある女性だった」。1898(明治31)年、25歳の鉞子は、アメリカ在住の杉本松雄と結婚するため、単身、横浜からアメリカ客船でアメリカへ向かう。

その後の紆余曲折を経て、夫の病没後、鉞子は『武士の娘』を執筆・出版する傍ら、コロンビア大学で非常勤講師として「日本の歴史と文化」を講義する。ベネディクトも同時期に同大学の非常勤講師を務めていたのである。「ベネディクトは、『菊と刀』の結論ともいうべき第12章『子どもは学ぶ』では、杉本  鉞子の『武士の娘』を根拠にして論じており、数ヵ所にわたって『武士の娘』の文章を引用している。そして、日本人が『刀』に託した『自己責任』という美徳に大きな期待を寄せた」。

司馬の『峠』によって、「長岡藩=武装中立国」を目指し、幕末の英傑の一人として一躍有名になった河井の実態が、本書では批判的に描かれている。藩の舵取りについて藩論が割れた時の、朝廷(=薩長)側に付くべきという「恭順派」の主導者が上級武士の稲垣であり、幕府側に立つべきという「主戦派」の頭目が、稲垣より9歳年上の中級武士・河井であったが、この内揉めは、その巧みな弁舌で藩主の信頼を得た河井の勝利に終わり、稲垣は家老職を解かれ、河井は家老にまで出世する。「河井継之助の演説はいつも単純明快で迫力があった」。藩の全権を握った河井に率いられた長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、戊辰戦争で潰滅的な敗北を喫し、特に庶民は塗炭の苦しみを嘗めることになるのである。そして、河井は戦いで怪我を負って逃げ延びる途中、41歳で落命。「河井継之助は、こうだと決めたら自説を変えることがなく、自分の意見に他人を従わせても、他人の意見には耳をかさなかったといわれている。自信過剰であり、ひとりよがりの傾向があった。最大の問題は、情報収集と戦略の欠如であろう。それが裏目に出た」と、著者は手厳しい。

「鉞子は、(『武士の娘』によって)『父は決して裏切り者でなかった。長岡藩のために命を賭して信念をつらぬいた武士だったのだ』ということを何としても後世に伝えておきたかったのである」。

「権力と富を同時に失った元武士の家に生まれ、成人して日本とアメリカという二つの異質の世界のなかで精一杯生きた一人の女性の目を通して、変貌しつつある身のまわりの生活や人間関係を冷静に見続けているところに、『武士の娘』の魅力がある。だからこそこの本を読んだ人に深い感銘を与えたのだった」。こういう魅力的な素晴らしい日本人女性を歴史上の先輩に持てたことを誇らしく思うのは、私だけだろうか。