榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

竹鶴政孝とリタは、本当に、理想的な夫婦だったのだろうか・・・【山椒読書論(512)】

【amazon 『リタの鐘が鳴る』 カスタマーレビュー 2015年2月17日】 山椒読書論(512)

私は、理想的な夫婦とは、3つの条件を満たすべきと考えている。①二人が価値観を共有している、②共通の夢の実現に向けて力を合わせている、③二人の性格・考え方・行動様式などが異なっていて、それらが補完関係にある――の3つである。

NHKテレビの連続ドラマ『マッサン』のモデル・竹鶴政孝と妻・リタに、私は理想の夫婦像を見ている。日本人の手で本物のウイスキーをつくりたいという政孝の夢を懸命に支えるリタの姿に心を揺さぶられる。二人の真実を知るべく、『リタの鐘が鳴る――竹鶴政孝を支えたスコットランド女性の生涯』(早瀬利之著、朝日文庫)を読んでみた。

「長女のリタは、弟のラムゼイが(竹鶴に)柔道を教わって元気になり、学校でも人気の的になったと聞くと、素直に喜び、竹鶴に感謝した。その上、スコットランドの文化であるウイスキーの製造技術をマスターする姿に心をうたれる。しかも竹鶴という日本人が、たった独りでグラスゴーまで来て、見も知らぬ土地で勉強する姿を見るにつれ、何か手伝ってあげたいという気持ちが湧いてきた。竹鶴政孝とリタが、互いに抱いた好意は、ごく自然に愛という形に進んでいった。そしてその愛は竹鶴がカウン家を訪問するたびに深まっていった」。

「彼(竹鶴)はなんとかグレーンウイスキーもマスターした。あとはいよいよ日本で工場をつくり、ホワイトホースのように、自社で製造し、自社の商標で売るウイスキー製造に取り組むことだけだった。だが、ウイスキー製造技術と労務管理、販売方法などをほぼマスターした彼の前に、ひとつの難問題が残されていた。リタとの結婚である。日本の両親は息子が国際結婚をするなどとは信じられない様子だった。またリタの母親アイダ、妹のルーシーや弟のラムゼイまでもが、日本に嫁いで行くことに賛成してくれなかった」。

「それでもリタの気持ちは決まっていた。竹鶴と日本に行き、そこで自分の生涯を送る決意である。リタの決意と竹鶴の強い意志の前に、カウン家の人々は沈黙せざるを得なかった」。リタの勇気ある決断に心よりの喝采を送りたい。

「鳥井信治郎は若い頃、大阪・道修町の薬種問屋・小西儀助商店で働いていた。小西儀助はブドウ酒や、いわゆる模造品のリキュール、ブランデーを主として大阪や神戸で売っていた。明治の末、鳥井信治郎は、小西の下で商いを覚えて独立した。やがて住吉町の自宅で寿屋(後のサントリー)を創業する。自宅の庭にウイスキーや赤玉ポートワインのビン詰め工場を建て、夫婦でコツコツと働いた。竹鶴より15歳ほど年上である」。サントリーの創業者も苦労の時代があったことを知り、感慨深いものがある。

「リタは、竹鶴政孝と結婚した時に、日本での永住を決めている。不安こそあったが、竹鶴政孝のウイスキーづくりに自分も一緒に取り組んでいた。そのためにも、彼女は自ら日本人になりきろうと努力をしている」。リタの数々の努力には、本当に頭が下がる。

「どちらに非があるというよりも事業家の鳥井と、技術者の政孝とは、やはり考え方に大きなへだたりがあったということだろう。1934年(昭和9年)3月1日、竹鶴政孝は、11年間勤めた寿屋を退職した」。已むを得ない訣別というべきだろう。

「政孝が長年、心中で温めていた構想を実現させる時がきた。新工場の建設地は、技術者の目から見て最適の北海道とし、あれこれ考えた末に、かつて訪れた余市に決めた。政孝から余市でのウイスキーづくりを打ち明けられた時、リタの心は複雑に揺れた。政孝のウイスキーにかける情熱は、彼の留学時代から十分に理解していた。そこに魅かれて結婚し、遠い東洋の国にやってきたとも言える。異国で生活するリタに、政孝は常に優しかったし、二人で数々の苦労を乗り越えてきた。そこに何の不満もない。ウイスキーづくりへ向けて前進しようという政孝に協力するのは、当然のことであろう。それはよく分かっていた。ただ、夫の人生を支えるだけの自分の一生というものに、ふと疑問を感じたのも事実であった。・・・ともあれ、夫と二人で歩き続けるしかない」。リタにも迷いはあったのだ。やがて、乗り越えることになるが。

「ニッカに、ようやく幸運が訪れたきっかけは、皮肉なことに、その後のリタを苦しめることになる第二次大戦であった。この戦争は、ウイスキーの需要を伸ばした。しかし一方では、リタにつらい日々を強いたのだった」。

「工場は拡張され軍需景気に沸いたが、青い目をしたリタの不幸も同時に始まっていた。リタは相変わらず日曜ごとに小樽や札幌の教会に出かけていた。そのことに初めて気がついたのは太平洋戦争が始まって半年ほどした春のことだった。後ろに人の気配を感じたのだ。初めのうちはさほど気にも留めなかったが、背後のその気配は次第に露骨になった。教会に来る外国人たちからも、やはり尾行されているという話を聞いた。教会内に不安が広がった。尾行していたのは、特高刑事だった。日曜日に限らず、山田の竹鶴の家の前には毎日、刑事が待ち伏せした」。スコットランド出身のリタはスパイ容疑をかけられたのである。

「天皇陛下の玉音放送がラジオを通じて流れたのは1945年(昭和20年)8月15日の正午である。来日して25年、リタは48歳になっていた」。

「しかし(リタには)ウイスキーの注文が減るとは思えない。男たちが働いている限り、ニッカのウイスキーは飲まれると信じていた。男たちはウイスキーを飲み、夢を見、ロマンを語り合うはずだ。かつてスコットランドの男たちがそうであったように、寒くなればポケットに小さなビンを一本忍ばせておくだろう。・・・やがて北海道は冬を迎え、ウイスキーを求める男たちが増えるだろう。リタは工場内を歩き、釜を叩いて語りかけた。『いつか、あなたはきっと忙しくなる』」。この蒸溜釜に語りかけるリタは絵画的だ。

「政孝の苦闘は続いていた。政孝はリタに、三級ウイスキーをつくるべきかどうか決断しかねている胸中を打ち明けている。『原酒ゼロのウイスキーを、ウイスキーと呼べるわけがない。しかし三級ウイスキーに押されて、動きがとれない。これをつくれと言ったのは誰だと思う? 中学の後輩で、今は大蔵大臣の池田(勇人。後に首相)だ』。『それなら、それをつくってみてはどうですか。あなたならほかのメーカーとは違った味が出せるんじゃないかしら』。リタがそう勧めた。『そうか。モルト5パーセントでも味の良いものをつくればいいか』。『そうですよ。みんなの幸せのためですもの。そのうちに、きっと本格的な味を求めてきます』。リタの口調は優しかった。『いつかは本ものを飲みたい、そういうビギナーこそ、あなたは大事にしなければならないんじゃないですか。飲む人がたくさん増えれば、あなたのブレンダーとしての鼻が、もっといいものをつくると思います』。政孝の方針は決まった」。政孝が悩んでいる時、いつもリタが傍らにいて、一緒に悩み、励ましたのだ。これぞ、本当の夫婦だ。

「1961年(昭和36年)1月17日。リタは夫の政孝と(養子の)威・歌子夫婦、それに孫たちに見守られながら、余市町山田の自宅で、64歳の生涯を閉じた。・・・リタの墓は、彼女が好きだった美園の丘の上にある。政孝はそれから18年後に没した。今は二人でその丘に眠っている」。

読み終わって、二人が、間違いなく私の考える理想の夫婦であったことを確認でき、嬉しかった。今夜は、政孝・リタ夫妻の話をつまみに、女房とワインで乾杯したい気分だなあ。