サンドとショパンの愛と破局・・・【山椒読書論(250)】
ジョルジュ・サンドの独り言
私、ジョルジュ・サンドが結婚したのは一度だけでしたが、恋愛は、生涯に亘り、数え切れないほど経験しました。
28歳の時、6歳年下の詩人、アルフレッド・ドゥ・ミュッセと知り合い、その年の暮には一緒にヴェネツィアに旅立ち、そこで甘い蜜月を過ごすつもりでした。ところが、水の都に到着してほどなく、先ず私が、続いてミュッセが病に伏してしまったのです。その時、往診に来てくれたイタリア人医師、ピエトロ・パジェッロが私の心を燃え立たせたのです。こともあろうに、恋人との愛の逃避行のさなかだというのに。
パジェッロと愛を交わしてから数日後に彼に宛てて書いた手紙の一節を引いておきましょう。「異なる空の下に生まれた私たちは、考え方も言葉も違います。あなたの額を日焼けさせた激しい太陽は、どんな情熱をあなたに与えたのでしょう。私は愛したり苦しんだりできますが、あなたはいったいどのようにして人を愛するのでしょうか。あなたの情熱的な眼差し、激しい抱擁、大胆な欲望が私をそそり、同時に恐れさせます。あなたのそばにいると、私は青ざめた彫像のようになってしまいます。そして、あなたを見詰めていると、驚きと欲望と不安を覚えるのです」。
ミュッセとの関係が破綻して暫くしてから、32歳の私は、当時社交界で有名なサロンの主催者であったマリー・ダグー伯爵夫人の邸宅で、6歳年下の新進ピアニスト、フレデリック・ショパンと出会ったのです。やがて私たちは恋仲となり、マヨルカ島に旅行し、私の故郷のフランス中部のノアンで一緒に暮らし始めました。夫とは別居し、子供を育て、結核を患うショパンを看病しながらの生活でした。この期間は、ショパンにとって生涯で最も旺盛な活動時期で、傑作が次々と作られていったのです。
因みに、ダグー伯爵夫人は夫を棄ててフランツ・リストと駆け落ちし、後にリヒャルト・ワーグナーの妻となる娘・コジマを儲けました。
しかし、ノアンでの幸福は永遠には続かなかったのです。息子・モーリスがショパンとの同居を嫌い、娘・ソランジュが成長し、艶やかな色香を漂わせショパンに媚びるような態度を見せるようになったからです。ショパンがソランジュに味方して口を差し挟むと私との諍いになってしまいます。そして、彼の健康状態は悪化していったのです。
1847年に彫刻家と結婚したソランジュは、ノアンを去ってパリに移ったショパンを頼るようになりました。これを受けて、私がショパンに宛てた手紙の一節をお目にかけましょう。「娘は母親の愛情が必要だなどとは言えないでしょう。母親を嫌い、中傷し、酷い言葉で、その家と最も神聖な行為を汚しているのですから。あなたは喜んでそんな言葉に耳を傾け、どうやら信じているようですね。こんな争いはしたくありません。うんざりです。私の胎内から生まれ、私の乳で育てた娘という敵から身を守るくらいなら、あなたが敵方に寝返るのを目にするほうがましです」。一緒に旅をし、断続的に9年近く共に暮らしたショパンとの関係を、「愛」や「情熱」ではなく、敢えて「親しい友情」と呼ぶことによって、私はその9年間をきっぱりと清算しようと思ったのです。数々の作品を世に送り、作家としての才能に恵まれていると自負していた私と天才ピアニストの愛が破局を迎えた瞬間でした。
私は、因習や年齢に囚われず、仕事にも恋にも情熱を燃やしてきましたが、仕事はともかく、愛という代物は一筋縄ではいきませんね。ただし、どの恋愛も、その時その時は真剣そのものだったのです。
私は、恋愛を、美しい感情と美しい思想とによって私たちを高めてくれる気高い情熱であると思っています。
映像と音楽の融合
サンドとショパンの愛と破局を描いたDVD『ショパン 愛と哀しみの旋律』(イェジ・アントチャク監督、ピョートル・アダムチク、ダヌタ・ステンカ出演、ポニーキャニオン)は、映像と音楽の見事な融合を示している。