榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

姦通罪が存在した時代に、自分の愛を貫いた二人の女性・・・【続・独りよがりの読書論(23)】

【amazon 『アンのゆりかご』 カスタマーレビュー 2014年12月31日】 続・独りよがりの読書論(23)

村岡花子の親友

NHKテレビの朝の連続ドラマ『花子とアン』で注目を浴びた村岡花子の、ドラマでは描かれなかった部分も知りたいと思い、『アンのゆりかご――村岡花子の生涯』(村岡恵理著、マガジンハウス)を手に取った。

「『ごきげんよう、お花さん』。奥田千代が花子の肩をそっと叩いた。『ごきげんよう、千代様』。花子は(東洋英和女学校の)上級生の中でも、特に最初に出会ったこの人を、姉のように慕っている。名家の出でありながら家柄を鼻にかけるところがなく、気品と折り目正しさをそなえていた。貧しい身なりをした花子に家の事情を聞いたりせず、さりげなく持ち物などを気遣ってくれるのだった」。

「(東洋英和女学校の)寄宿舎に新たな編入生が登場した。柳原伯爵令嬢燁子(あきこ)。・・・燁子の家柄と美貌は、校内でも際立っていた。・・・その佇まいは、そこはかとなく文学的な香りを漂わせ、花子は悲劇のヒロインのような燁子に、一目逢った時から強く惹かれたのである」。燁子は耐え難い結婚生活を解消後、23歳で入学してきたのだ。この時、安中花子は16歳。

明治44(1911)年の早春、25歳の燁子が、25歳年上の九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚する。「燁子を失うことは身を切られるほど、つらく耐え難い。行き場のない怒りに包まれた花子は『心を与えないで、身を与えるのは罪悪よ』と言い捨て、燁子に絶交を宣告した」。

その3年後、花子のもとに燁子から虚しく苦しい結婚生活に対する真情を吐露する手紙が届き、親交が再開する。

花子の恋

大正8(1919)年、26歳の花子は、福音印刷合資会社の御曹司・村岡儆三と仕事で知り合い、道ならぬ恋に落ちる。6歳年上の儆三には病身の妻と幼い長男がいたからである。花子が訳した『モーセが修学せし國』の奥付には「訳者 安中花子、発行人 山室軍平、印刷人 村岡儆三」とあり、そのページの余白には次のような書き込みがある。「大正八年五月二十五日 魂の住家みいでし記念すべき日に 花子」。「儆三の胸に抱かれて、初めてくちづけを交わした日である」。

「この年、4月から半年にわたって花子と儆三が交わした約70通のラブレターには『運命の恋』を実らせたい激情と、そのために他の人たちを傷つけていいのか、という葛藤が渦巻く。儆三は病める妻と別れて花子といっしょになりたい、と切望。彼を愛しつつも、道ならぬ恋に落ちてしまった花子は、悩ましさに身を焦がす」。

出会ってから6カ月半後に、二人は築地教会で結婚式を挙げる。燁子から結婚を祝福する手紙が届く。

「大正10年(1921)10月22日の朝、新聞を見て花子は仰天した。燁子(白蓮)が、社会主義者の宮崎龍介と駆け落ちしたというのだ。しかも10年の結婚生活を送った伊藤伝右衛門に対し、燁子は大阪朝日新聞紙上で絶縁状を発表したのだった」。世にいう「白蓮事件」である。「自分の足で歩み始めた燁子は、逆風に負けず、凛とした姿勢をつらぬいた。出奔中の燁子から花子に送られた手紙にも、強い意志と、生まれて初めて味わったすがすがしい喜びがあふれている」。

『赤毛のアン』との出会い

日本が戦争へと向かう昭和14(1939)年、心ならずも、「明日はカナダに帰るという日、ミス・ショーは見送りに来た花子に、『私たちの友情の記念に』と、一冊の本を贈った。『いつかまたきっと、平和が訪れます。その時、この本をあなたの手で、日本の少女たちに紹介してください』。花子がこの時、受け取った本、それはカナダの女流作家、ルーシー・モード・モンゴメリによる『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』」。カナダ人婦人宣教師のミス・ショーは、銀座の教文館で働き、花子と一緒に編集を担当した親友である。私事に亘るが、教文館は、私がその向かいにあった製薬企業・三共の本社勤務時代、昼休みに毎日通った懐かしい書店である。

戦時下という厳しい環境の中で、花子は苦労を重ね、6年かけて『赤毛のアン』の翻訳を遂に完成させる。「花子も周りから疎開を勧められる。それでも疎開しない理由のひとつには、蔵書に対する愛着もあった。花子の人生の友である蔵書は洋書が多く、これらの本を持ち出すことは不可能で、花子は行李に入れて庭に埋めたり、防空壕に隠していた。花子は住みなれた大森にとどまった。憲兵や特高が目を光らせ、密告者も横行していた。ファンを名乗って訪ねてくる密偵がいるらしい、と文学者仲間から注意をうながされた。それでも灯火管制下、(電気)スタンドに黒い布をかぶせた薄暗い部屋でカナダの人々に友情の証を立てるような思いで『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』を訳し続けた」。

花子も燁子も、不倫が姦通罪に問われる時代に、敢然と自分の愛を貫いた女性であった。愛する人と一緒になることを切望し、勇気を持って実現した幸せな女性であった。

37年間、私を育ててくれた三共の創業者・塩原又策の妻になったのが、花子の親友・奥田千代であったこと、三共の共同創業者・西村庄太郎の次女・巴を妻にしたのが、儆三の弟・斎であったことを、本書で知り、驚いた。