榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

食に特化した書評集なのに、グルメでない私にも楽しめた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(281)】

【amazon 『私的読食録』 カスタマーレビュー 2016年1月21日】 情熱的読書人間のないしょ話(281)

風はかなり冷たいが、眩しいほどの太陽に励まされながらの散策中、珍しく樹上にいるツグミをカメラに収めることができました。地上のツグミのペア、水上のオオバンのペアも撮ることができました。寒い中、粘りに粘って、飛翔するアオサギをカメラで捉えることができました。ダイサギも飛んだのですが、撮影には失敗してしまいました。因みに、本日の歩数は11,681でした。

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閑話休題、前書きも後書きもない『私的読食録』(堀江敏幸・角田光代著、プレジデント社)を読み進めていくうちに、違和感を覚えました。著者二人が交互に担当する書評集なのですが、なぜか食に関する書評ばかりだったからです。グルメには程遠く、食にはあまり関心のない私は慌てたのですが、これらの書評は食に関する月刊誌に連載されたものだったのです。

それでも、二人の書評はそれぞれ味わいがあり、十分に楽しめました。

例えば、角田の『小公女』(フランシス・ホジソン・バーネット著)を扱った「読むことでしか食べられないもの」は、こんなふうです。「この物語のなかに『甘パン』という食べものが出てくる。お金を拾つたサアラ(セーラ)が、顔を上げるとパン屋があつて、おかみさんが焼きたての甘パンを並べている。この甘パンのくだりで、私は思わず『ああ、甘パン!』と叫びそうになつた。内容はおおざつぱにしか覚えていないというのに、サアラが甘パンを買う場面だけは、というより、物語に登場する甘パンの存在は、じつにありありと覚えていたのである。その甘く香ばしいにおい、ふつくらとしたやわらかさ、そして口じゆうに広がる甘さ・・・。ところで私は、未だに甘パンというものがどんな食べものなのか知らない。知らないのに、舌も鼻も目も胃袋も手も、記憶しているのである。子どもの読書はすごい。食べるのだ、本当に。・・・きつとほんものの甘パンを食べてさえ、私は『違う! これは甘パンではない!』と思うのだろうな。本に出てくる食べものというのは、読むことでしか食べられないのだ」。

堀江の『ロシア文学の食卓』(沼野恭子著)を論じた「ビーツが入らないボルシチは、餅なしの雑煮のようなもの」は、体験談を踏まえて語られています。「ボルシチには地方色があつて、具もさまざまだというから、そこまでは我流でもよかつたわけだ。しかし著者はきつぱりと書いている。『でも、ボルシチにはこれだけはなくてはならないという食材がある。それがビーツである。だから、ビーツの入つていないボルシチがあつたら、それは餅の入つていない雑煮のようなものだ』。要するに、私は餅なしの雑煮をつくつていたのだつた。その後、スーパーに入るたびにビーツを探した。でも、当時は、生ビーツはもちろん、缶詰も見つけられなかつた。それがいまや簡単に手に入るのだ。嬉しい反面、なんだか悔しくもある」。

角田の『センセイの鞄』(川上弘美著)に対する「二人の中心にある、湯豆腐、おでん、ビール、熱燗」は、この書の本質を衝いています。「男女の恋愛において味覚が重要であると、なんとなくみんなが薄々思つていたことを、この小説ははじめて説得力を持つて描いたのではないか。二人を結びつけ、かつ、二人の中心にさりげなくある食が、居酒屋の地味な料理、というのがじつにこの作家らしいと私は思う」。

堀江の『野狐』(田中英光著)を評した「絶叫しながら、飲みほすように食べる」は、ここぞという引用が光っています。「『店を出ると、その角に中華料理店がある。リリーが何か食べたいというので、入つて、私のためにはチキンカレー、リリーのためには、焼きそばと卵のスープを取つた。私は充分に酔つているので、もはや、食欲がない。ぼんやり、リリーの食べかつ飲むのを眺めていると、彼女は瞬く間に、自分の分を平らげてしまい、<私は面倒なのはキライなのよ>と絶叫しながら、私のカレーまで飲みほすように食べてしまつた』。リリーというのは、語り手がどうしても縁を切れずにいる『(たいへんな女)』と丸括弧を付された夜の商売をしている桂子の友人である。・・・体育会系の破滅の香りがする小説のなかで私が覚えていたのは、情けないことにこのリリーの食欲と途方もない絶叫だけだつた」。