榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

これまで出会ったことのない水彩画のような作風の短篇小説集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(726)】

【amazon 『ビニール傘』 カスタマーレビュー 2017年4月14日】 情熱的読書人間のないしょ話(726)

山梨県立美術館で、私の好きなジャン・フランソワ・ミレーの「落ち穂拾い(夏)」を見ることができました。パリのオルセー美術館で見た「落ち穂拾い」とは異なり、あまりに小さい(38cm×29.5cm)のでびっくりしました。54歳のミレーの写真、オシップ・ザッキン作のゴッホ記念碑も見ることができました。植木が四角錐に刈られています。白いネコを見かけました。象牙彫刻美術館では、実物大(高さ4.5m、長さ6m)のマンモスの親子が復元されています。杉玉を見かけました。

閑話休題、『ビニール傘』(岸政彦著、新潮社)には、『ビニール傘』と『背中の月』の2短篇が収められていますが、これまで出会ったことのない水彩画のような作風に惹きつけられてしまいました。

『ビニール傘』は、大阪の片隅で希望の持てない日々を送る若者たちの呟きが、順不同でリレー競技のように綿々と綴られていきます。

「俺以外の全員がタバコを吸い、スポーツ新聞を広げ、コンビニおにぎりを食っている。みんなゴミを吸い、ゴミを読み、ゴミを食っている。高校を中退してすぐにこの飯場に入った若いやつが、小声でどこかに電話している。全員が無言なのでその小声は車内によくひびく。やばいとこで金借りたらしい。アホや」。

「いつもなんか想像してるな。そうやな。大阪が滅びても滅びなくても、どっちにしてもふたりっきりしかいないんだな、と思う。どちらにしても同じことだ。俺もこいつにも帰れる家があるわけじゃないし、どっちにしてもふたりっきりしかいない。別れたり、どちらかが死んだら、ひとりになる」。

「彼女が欲しいな、と思う。彼女じゃなくてもいい、一緒に住んでくれなくてもいい、だれか女と話がしたいと思う。友だちといえるやつもそんなにいないけど、何ていうか、恋人が長いあいだいないということで、自分自身が大きく消耗しているような気がする。だからといってナンパして無理してだれかと付き合ったりしても、それはそれで面倒くさい。だから結局何もしていない。長い間ひとりで生きてきて、そのことに慣れすぎてしまって、いまからだれかと関係を作ることは、想像しただけでしんどい」。

「そうか。そうやな。しゃあないな。こうやって、特に何のドラマもなく、こいつとも別れることになるんだなと思った。最初にどうやって出会ったのかもよく覚えてない。どれくらい付き合ってるんだっけ。いや、そもそも、俺はこいつと付き合ってるんだろうか。彼女は傘を持ってないほうの手で、俺の手を握ってきた。お互いそんなに、相手の顔や性格が好きというわけでもなく、ただなんとなく付き合うことになって、短期間だが一緒に暮らしたこともあったが、俺はこいつがいなくなっても何も変わらないだろうなと思った。付き合うときにもたいしたきっかけもなかったし、別れるときもなにごともなく別れていくんだろう」。

『背中の月』は、突然の病で妻を若くして亡くし、ぽっかりと開いた胸の穴を埋められない男の思いが、現在と過去を行きつ戻りつしながら語られていきます。

「薄眼をあけると自分のベッドの横に美希の空っぽのベッドがある。いつものようにもういちど目を閉じて、そこに美希が寝ているところを思い出す。もう十年も一緒に隣で寝ていたので、その匂いや重さや寝息を、ほんとうにそこにあるかのように想像することができる。美希は仕事のある平日でも強く起こさないかぎりいつまでも寝ていた。小さく口を開け、だらりと腕をのばし、乱れた長い髪を首にもとわりつかせて、ぐうぐうと寝息をたてていつまでも寝ていた」。

「誰にでも脳のなかに小さな部屋があって、なにかつらいことがあるとそこに閉じこもる。洞窟のようなその場所は、暗い穴をずっと下りていくと、行き止まりは急に開けて広場のようになっていて、天井に開いた亀裂から月の光がひとすじ差し込んでいる。俺は隣の部署の年上の先輩と喋りながら、何度もその穴のなかに入りそうになる。いま入ったら出てこれなくなるだろう。俺は必死で先輩の顔に焦点を合わせて話に集中しようとする」。

「こういうときに暗くなったり、俺を責めたりしない美希はえらいなあ、と思う。ビールをちびちび飲みながら、深刻な顔で、でもどこか楽しそうに、あれを削ろうか、これを節約しようかと思案している。いつも穏やかで楽天的な美希にとっては、俺がリストラされるかもしれないということも、なにかのゲームみたいにみえたのかもしれない」。

「窓から月の明かりが部屋のなかに差している。美希の裸の背中が光に照らされている。俺はぼんやりと数年前の光景を思い出していた。特に何もない、ただの日常の風景だが、妙に記憶に残っていた。いつも通りの簡潔で単純だが優しいセックスのあとで、ベッドに横たわったままタオルケットをたぐりよせて背中をまるめて、美希はぼんやりしていた。その背中に月の光が当たっている。ぽつりぽつりと背骨の突起に影ができる。金色の光のなかに浮かび上がる、真っ白な背中。何を話したかも覚えていないが、なぜかあの背中の白さだけがときどき目に浮かぶ」。

この作家は病み付きになりそうです。