榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

卑弥呼はどんな顔をしていて、どういう家で暮らしていたのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(884)】

【amazon 『魏志倭人伝の考古学』 カスタマーレビュー 2017年9月17日】 情熱的読書人間のないしょ話(884)

やはり、私は変わり者なんでしょうね。風に揺れる草たちを見ていても、飽きることがありません。

閑話休題、『魏志倭人伝の考古学』(佐原真著、岩波現代文庫)は、佐原真の最後の、そして、その死により中断された著作ですが、魏志倭人伝の研究を骨格とするエッセイの趣があります。

著者の関心は、邪馬台国がどこにあったのかという論争よりも、「考古学が明らかにしつつある事実と魏志倭人伝の風俗記事の記載とが、どううまく合うか、合わないかを確かめることに興味が集中しています」。「私は、ひとつの文献資料としての魏志倭人伝の主に衣食住を始めとする風俗記事と考古学的事実を比べていきます」。「結論からさきにいうと、考古学が新しい事実を明らかにしていくほど、魏志倭人伝の記載と合ってきています。考古学と話がよく合うことがますますふえています」。

邪馬台国の所在地論争には興味がないと言いながら、著者は畿内説に傾いていることを隠していません。これは、著者が関西人であることも影響しているのでしょうが、吉野ケ里の遺跡に邪馬台国の記載と合致するものが多いことを認めながらも、それでも畿内説に肩入れする姿勢は、九州説の私には、どうにも納得できません。「これまで卑弥呼の邸宅などについての記述は架空のものだといわれてきたものが、吉野ケ里以来現実味をもってきたのです」。「魏志倭人伝の記載が、架空ではなくて、それに対応する建物・施設が弥生の遺跡(=吉野ヶ里)で出てきたことが私にとっての最大の意味でした。発見当時、私はそう発言したのです。直ちにあれが邪馬台国だとか、あるいは魏志倭人伝の内容を立証したとかいったわけではありません」。

卑弥呼の顔について、面白いことが書かれています。「現在の人類学界では、弥生時代の初め以来、朝鮮半島から人びとが到来したことを否定する人はいません。邪馬台国が北部九州や畿内にあったとすれば、渡来系で背高く面長で由紀さおりさん、熊本・長崎・鹿児島ならば、縄紋系で薬師丸ひろ子さん、という松下孝幸さんの説明は、いま人類学研究者に共有のものでしょう。・・・だから、邪馬台国が北部九州・畿内のどちらにあったとしても、こと卑弥呼の風貌については、変らないことになります。ここで、失礼ながら卑弥呼さんの体にもう少し近づくことにします。卑弥呼さんは、渡来系弥生人ですから、面長で、顔全体は起伏少なく柳の葉のように眉細く薄く、目は一重まぶたで鼻筋とおり唇薄く、耳たぶ小さく、毛深くはなくそして、耳垢は乾き、脇の下に匂いはなかったでしょう」。

住居については、こう述べています。「弥生時代後半から古墳時代にかけて夜くつろぎ、性をいとなみ、ねむる、という私的生活は縦穴住居でおくっていたのでした。それならば、わが卑弥呼さんもまた、縦穴住居で寝起きしていたことになります。朝目ざめて朝食をとると、仕事着に着かえて公邸にお出ましです。あるいは朝食は公邸でとったのでしょうか」。

私は、卑弥呼が中国(魏)に生口(奴隷)を貢納したことに、以前から違和感を抱いてきました。「贈り物、授かり物」の箇所で、著者もこのことに言及しています。「倭は、107年に生口160人、239年に男生口4人、女生口6人、243年に生口を、その後も倭は魏に男女生口30人を贈っているのです。・・・中国の周りの国ぐに・地方・民族が、当時の中国の人の珍重するもの、皇帝をよろこばすものを贈っているなかにあって、倭国の生口の贈り物は、不思議にうつります」。

中国からの授かり物の鏡についても、興味深い記述があります。「清少納言さんは、わずかに曇りを生じた中国鏡に顔を映すときに心をときめかせ、『鏡は八寸五分』(直径25センチメートル)に限る、とも書いています。ずいぶん大きな鏡を好んだものです。清少納言さんよりも750年も前に、女王卑弥呼さんもまた、鏡は中国製の大きいのに限るワ、少し曇りが出てきたのに映すと心ときめくの、とつぶやいた、と想像したくなります。しかしこれは、全部中国製、全部日本製、一部中国製・一部日本製と学界で意見の分かれる三角縁神獣鏡(直径23センチメートル前後)を中国の魏の皇帝から卑弥呼さんが授かった、としての話です」。

弥生馬はいたのか否かという議論については、考察の末、こう結論を下しています。「魏志倭人伝にいう『牛馬なし』は正しかった、と私は思います」。

本書を読み終わり、これまで私の抱いてきた佐原は厳格な研究者という印象が一変しました。