榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

曽我兄弟の敵討ちの背後には、大きな陰謀が隠されていた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1055)】

【amazon 『曽我物語の史実と虚像』 カスタマーレビュー 2018年3月13日】 情熱的読書人間のないしょ話(1055)

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閑話休題、艱難辛苦の末、親の敵を討った曽我兄弟――十郎祐成22歳、五郎時致20歳――の事件には、以前から並々ならぬ関心を抱いてきました。そのたっぷりと脚色された物語ではなく、史実そのものを知りたいという一念から、『曽我物語の史実と虚構』(坂井孝一著、吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)を手にしました。

本書の目的は明確です。「本書は、最も成立年代の古いとされる真名本『曽我物語』系の写本「妙本寺本」をテキストに選び、その扱いに若干工夫をこらすことによって歴史学的考察を試みることにしたい。つまり、従来のようにテキストの叙述を単独に用いるのではなく、できるかぎり『吾妻鏡』の記事との比較を心がけ、また『吾妻鏡』の記事を、直接曽我兄弟と関係のないものであっても、時代背景を浮かび上がらせる情報としてテキストの読解に活用するのである。こうすることによって、テキスト単独では、あるいは『吾妻鏡』単独では明らかにし得なかった歴史像を描き出すことができるのではないだろうか」。まさに、この方法によって、著者は史実を炙り出すことに成功したのです。

「『吾妻鏡』の記事を用いて、また随時、真名本『曽我物語』の叙述と比較しつつ、兄弟をめぐる人物関係や歴史的環境、建久4年の狩りと富士野の敵討ちについて考察した。その結果、真名本『曽我物語』の叙述に、物語の構想や作者の意図に基づく虚構・誇張が含まれていることが確められた。一方、『吾妻鏡』の記事については、原拠と編纂の問題を明らかにすることができた。すなわち、曽我兄弟関係の記事は、幕府に伝来した実録的な記録、鎌倉武士の感覚や信仰を伝える説話的な物語の『曽我記』、真名本『曽我物語』の元となった原初的な『曽我』の物語などを原拠とし、それぞれの内容や表現を取捨選択して組み合わせるという方法で編纂されたことが判明したのである」。

『吾妻鏡』は、なぜ、史実を隠す必要があったのでしょうか。「厚い壁で隠されていた敵討ち事件の姿がおぼろげながら見えてきたような気がする。それは幾重にも重なった忌まわしい陰謀と、二人の若者の悲劇によって織り成された事件だったのではないだろうか」。

著者の仮説は、このようなものです。「まず、常陸国を舞台とする陰謀が富士野の狩りの前から始まる。八田知家の鹿島社造営奉行への任命がそれである。彼はその後、常陸国にあって画策を続ける。一方、富士野に下向した北条時政も、この知家と連絡をとりつつ動く。そして、狩野宗茂とともに宿所の設営や警備をとりしきり、自分の従者的存在である曽我兄弟が工藤祐経を討てるよう導いたのである。次いで時政らは、その混乱に乗じ、狩りに参加していた常陸の武士団の追い落としにかかった。しかし、事前に危機感を募らせていた常陸側はいち早く逃亡し、結局所領没収という制裁の形をとることになった。他方、富士野の事件の急報を受けた大掾氏の惣領多気義幹はいよいよ防御を固める。しかし、これは前もって知家・時政らがしかけた罠にほかならなかった。そして、義幹は鎌倉に呼ばれて失脚し、知家と結んでいたと思われる馬場資幹が新たな惣領となったのである。むろん、こうした一連の陰謀の背後には、知家を鹿島社造営奉行に任じ、時政・宗茂に宿所の設営・警備を命じた頼朝の影がある。恐らく、かなりの部分が頼朝の了承のもとに行われたものだったのであろう」。

「ところが、予想外の出来事が起こった。兄弟の敵討ちに伴う混乱の中で、相模の大庭景義・岡崎義実らを中心とした一団が不穏な動きを示し、時政・宗茂らと衝突したのである。この武力衝突により多数の死傷者が出たばかりでなく、頼朝の身にも危険が迫った。・・・さらに、この予想外の展開により五郎が生け捕りになる。時政らにとっては予定していなかった事態である。・・・恐らく時政や頼朝は、騒ぎの中で兄弟を誅殺する予定だったのであろう。むろん、父祖の遺領回復の望みを時政の力に賭けていた兄弟は知る由もなかった。・・・計画に狂いが生じたのは頼朝・時政も同じである。結局、兄弟の敵討ちを前面に押し立てて事態の収拾をはからざるを得なくなった。・・・(『吾妻鏡』が)兄弟の奮戦やものおじせぬ五郎の姿を伝える『曽我』の物語を用いたのは、逆にこれらの事情を覆い隠すためだったのではないだろうか」。

「こうした陰謀がしくまれ、また武力衝突が生じた背後には、諸国でくすぶり続けていた武士団相互の、あるいは武士団内部の確執、さらには頼朝体制への不満などがあったと考えられる。・・・頼朝はこうした動向を敏感に察知し、危惧していたに違いない。そして、なんらかの手を打つ必要を感じたのではなかったか」。

「頼朝の危惧自体は間違ってはいなかった。事件後、調査をすすめていく過程で、頼朝を廃し範頼を擁立する陰謀があったことが判明したからである。さっそく頼朝は宇佐美祐茂を用いて範頼を追い詰め、その身柄を狩野宗茂ら伊豆の武士たちに引き渡したのである。その後に起きた安田義定・義資父子や下妻弘幹らの粛清は、こうした頼朝体制再建の一つの帰結であろう」。

曽我兄弟の敵討ちの背後には、大きな陰謀が隠されていたという著者の大胆な仮説は、強い説得力があります。