北条政子は鎌倉時代の第一級の政治家であると同時に、人情味溢れる人物だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2647)】
モミジアオイが咲いています。
閑話休題、『女人政治の中世――北条政子と日野富子』(田端泰子著、吉川弘文館・読みなおす日本史)では、北条政子、日野富子、豊臣おね――の3人が取り上げられています。
本書のおかげで、北条政子に対する私のイメージが変わりました。
「(源)頼朝との婚姻は治承元(1177)年であるから、政子21歳の時ということになる。頼朝はこの年31歳であり、しかも『曽我物語』にあるようにこれ以前に伊東氏の娘を妻としており、初婚ではなかった。頼朝は13歳の時に伊豆国に流人として来たが、その際、伊東氏と北条氏を頼ったと『曽我物語』は述べる。伊東祐親は4人の娘を持っており、1人は三浦義澄の妻となり、1人は工藤祐経と婚姻したがのち土肥弥太郎遠平と再婚している。3人目の娘と頼朝は結ばれたのであった。2人の間に『千鶴御前』という子供が生まれたが、伊東祐親は娘が流人を聟にとったことを怒り、この子を松川の淵に投げ入れて殺したとされる。祐親はこの3人目の娘を江間小四郎(=北条義時)に再婚させている。この事件は『曽我物語』が評したように、伊東氏と北条氏の将来を全く分ける事件となった。北条氏が鎌倉期に発展したのは、政子の頼朝との婚姻にあずかるところ大であると私も思う」。
「この(頼朝と敵対関係にある義経を慕う舞を舞った静に不快感を露わにした頼朝に反論した)部分は、政子の気持が伝わる数少ない場面である。静が舞を固辞し、それをはじめると義経を恋う歌、頼朝義経の不仲を昔の状態にもどすことを願う歌を歌うという勇気に感心するが、それを肯定し、頼朝に反論した政子の態度も立派であるといえよう」。
「またここで、政子は静の姿を『貞女』と表現していることが注目される。別れ別れになっても、義経との契りを忘れず、恋い慕う姿を『貞女』と表現したのである。貞女というと、後世、特に江戸時代に流布した貞女を思い起す。これは夫の死後再婚せず後家として後半生を過ごすのを貞女といったものである。もちろんこのような貞女も鎌倉期に存在したが、政子はそうではなく、別れ別れになった夫への恋慕の情をあらわにする姿を貞女とみたのであった。江戸時代に一般的であった三従の貞女(再婚せず後家を通す貞女)とは意味の異なる貞女観が、鎌倉期に存在したことを注目したい」。
「義経(と静との間の)子息についても、政子と頼朝の意見の違いが明瞭に読み取れる。頼朝は謀反人の子とみており、政治的な見方が優先しているのに対し、御台所政子は『貞女』静の子であることを重視している。・・・頼朝が政治一辺倒の見方を通しているのに対し、政子は親族や姻族のつながりを大切にする態度、より人間的な物の見方を、身につけていたように思えてならない」。
「志水冠者(木曽)義高の誅殺時の(娘)大姫の憔悴ぶりに対する同情、静の舞への同感、静の子の殺害に対する嘆きと取りなし、それに宮菊を猶子としてあわれんだこと、こうした例を見るにつけ、政子は頼朝とは異なり、鎌倉武士階級の社会通念ともいえる、親族や姻族のつながりを大切にし、困った状況にある一族の者には温い手を差し延べる常識を持った人物であったといえる」。
「静とその母磯禅師が京に帰ることになった時、傷心の静母子を見送り、静をあわれんで多くの重宝を与えたのは、政子と大姫であった」。
「曽我兄弟の烏帽子親は北条時政であったが、北条氏よりは弱小であった曽我氏とこの関係が結ばれたため、時政はこの2人を従者のごとくみなしたと考えられる」。
「『貞観政要』を読んでいたという政子が、どのような政治を理想と考えていたのかがよくわかる。(頼朝没後の)政子の理想政治とは、民の愁いを知り、人の謗りを顧みる、つまり他の意見を多く用いる政治であったのである。これは、側近中心の、少数の者による政治形態を用いた頼家とは、異なる道であったことは明白である。・・・そのため、正治元(1199)年4月12日、今度は頼家の親裁停止が決定される。大小の事は北条時政、義時、大江広元、三善善信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政の13名の談合で訴訟を裁決することが定められ、頼家は政治の中心からはずされたのである。頼家の親裁が停止させられ、13人の重臣の合議により事が決定される体制になれば、13人の意見が区々(まちまち)の時、政子の判断を仰ぐということは、自然になされたのではないだろうか。形の上では頼家が頼朝嫡子として源家の棟梁ではあったが、その生母政子の意志が重視される形で、政道は進められたと考えられる」。
「承久3年5月19日の、承久の乱勃発時の記事を見ると、明白に、軍事行動の最高指揮権が政子に握られていることがわかる。それとともに、政子の御家人に対する演説が御家人の心を一つに結束させたことをみると、政子こそが関東の棟梁であったことが読み取れる。政子は御家人の精神的支柱、関東の棟梁であるとともに、軍事指揮権、最高決定権を握っていた。重臣の評議に決定を下したのは政子であった。その決定に従って、執行は義時が行なったのである」。
「政子は民政にも意を用いている」。
「殊に政子の功績として大きいのは、守護地頭制の基礎を固め、磐石の制度とすべく努力したことではないだろうか。ゆえに政子は鎌倉時代の第一級の政治家であったと評してよいだろう」。
政子は鎌倉時代の第一級の政治家であると同時に、人情味溢れる人物だったのです。