榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

著者にとっての『赤毛のアン』、『十五少年漂流記』、そして、つげ義春・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1173)】

【amazon 『ノスタルジックな読書』 カスタマーレビュー 2018年7月11日】 情熱的読書人間のないしょ話(1173)

ハスが桃色の蕾を付けています。薄紫色の花を咲かせたアメリカオニアザミは、葉だけでなく、茎や総苞にも刺が生えています。芳香を漂わせるオシロイバナに花弁はなく、赤紫色の花弁に見えるのは萼です。チトニア(メキシコヒマワリ)が鮮やかな赤橙色の花を咲かせています。トマトが黄色い花と実をつけています。ムベが薄緑色の実をぶら下げています。ザクロの実がほんの少し色づいてきました。因みに、本日の歩数は10,884でした。

閑話休題、『ノスタルジックな読書――コミック・シネマ・小説』(大島エリ子著、港の人)は、ポスト団塊世代を自任する著者によるエッセイ集です。

「『赤毛のアン』と私」では、想像力の素晴らしさが語られています。「小学校3、4年生の頃の私は、本来何でも手当りしだいに読みあさる多読雑読傾向だったのに、ほとんど『赤毛のアン』シリーズ全8巻を繰り返し読むだけで1年近くを過ごしていました。このシリーズは、アンの少女時代からアンの娘の青春時代、アンの50代までを描いている、アン・シャーリーという女の子の一生の物語なのです」。「その人生の生活の日常の小さなエピソードの一つ一つが、珠玉のようにきらめいてワクワクするものに思えたのはなぜだったのでしょうか。・・・イマジネーションに溢れたアンが、家の周囲の森や小道に『恋人たちの小道』『お化けの森』と名前をつけていたように、私も能登半島の何の変哲もない森や林、沼などに、ひそかに自分で名前をつけて空想を楽しんでいたのでした」。

「ほとんどが手作りのナチュラル派の生活、刺激の少ない平穏な日常は、イマジネーションに恵まれた人間にとってはそれを生き生きと広げることのできる絶好の環境です。何もないからこそ、また完成された便利なものが不足しているからこそ、空想の力で補い、宇宙の彼方までイマジネーションを羽ばたかせることができる。その自由の素晴らしさ、というのは、今の日本ではちょっと味わえないものかもしれません」。「何もない、不便、シンプル、稚拙、無駄、などなどといったことは、現代ではマイナスに評価されがちですが、実はそういったところにこそ人間の空想の力、つまりは創造性につながる何かを発達させる余地があったとも言えると思います」。アンや著者ほどではないが、想像の世界に遊ぶのが好きな私は、思わず何度も頷いてしまいました。

「少年集団ものの小説と映画のこと」では、『十五少年漂流記』が登場します。「この物語で一番好きだったのは、少年たちがそれぞれ自分の個性や特技を発揮して、力を合わせ、知恵を出し合って苦労しながらも楽しく生活してゆくところでした。何かの特技があって、皆に一目置かれ、黙々とその作業(たとえば大工仕事)をする少年のキャラクターに、何より惹かれた私でした。あまりにも前向きな、お子さま教育向けストーリーではありましたが、漂流記のよさはその楽天主義だと思っているので、そこが魅力というべき」。著者も触れているが、同じ漂流物でも、『蠅の王』とは全く異質の世界なのです。

「懐かしきつげ義春」には、こういう一節があります。「彼の作品に無意識に含まれている湿度の高さは、私たちが古い、暗い、貧乏くさくてうざい、とどこかで捨ててきた、あるいは、見ないようにしている古いアジア的、発展途上国的(昭和30年代ごろまで、日本は確かに発展途上国でありました)日本を象徴するような何かなのかもしれません。自分の中にもあるそういった湿潤性を、かっこわるいものとして、気恥ずかしいものとして、隠すようにしてきた時期が、私にもあったような気がします。人前でうっかり好きとは言えないつげ義春・・・しかしそれゆえに却って、たとえば疲れた時、ふと彼の漫画をめくってみると、その荒涼とした風景や、さびしく置き去られた眠ったような町並に、着物や割烹着の中年女やあ老婆の姿に、ぞくぞくするような郷愁と心地よさを感じてしまうのはなぜでしょうか?」。共感を覚えるのは、私が著者と年齢が近いせいでしょうか。