榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

江戸無血開城を成し遂げたのは誰かが明らかにされている・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1337)】

【amazon 『NHK英雄たちの選択 江戸無血開城の深層』 カスタマーレビュー 2018年12月18日】 情熱的読書人間のないしょ話(1337)

ヒヨドリジョウゴが赤い実を付けています。ミツバツツジが紅葉しています。並ぶシクラメン、ハボタンが季節を感じさせます。因みに、本日の歩数は10,993でした。

閑話休題、NHK・BSの歴史番組『英雄たちの選択』は欠かさず見ているが、『NHK英雄たちの選択 江戸無血開城の深層』(磯田道史・NHK「英雄たちの選択」制作班著、NHK出版)のおかげで、理解をより深めることができました。

徳川慶喜の評価について。「個人的な感想を述べるならば、徳川慶喜という人は富士山のような人ではなかったかと感じています。短期的に近くに寄って見てみると、石ころや岩場ばかりですが、長期的に思い切り遠くから眺めてみると、非常に美しい姿をしているわけです。慶喜だからこそ、明治維新の変革の犠牲が少なかったのではないか。そのように感じられてなりません」。

勝海舟と西郷隆盛の仲について。「新政府軍の参謀を務める西郷隆盛と勝は旧知の仲でした。ともに日本の将来を語り合った西郷ならば、交渉の余地はあるかもしれない。この4年前の元治元(1864)年、まだ敵味方となる前の勝と西郷は、大坂で初めて顔を合わせています。勝はこのとき、幕府や諸藩の枠を超え、実力のある者が集まって国論をまとめ外国に対抗するという、新しい国家構想を西郷に語ったとされています。これを聞いた西郷は勝の人物・識見に心服します。西郷は友人にあてた手紙で勝のことを語っています。『ひどくほれ申し候』と」。

「勝は『この世で恐ろしい人間を二人見た』と語っています。横井小楠と西郷隆盛のことです。・・・幕末の少し前、たとえば安政年間(1854~60年)の段階で、西洋のことを正しく理解したうえで、日本の行く末やあるべき政治の姿をキチンと思い描くことができたのは二人しかいませんでした。横井小楠と橋本左内です。左内は越前藩士で、(松平)春嶽の側近として活躍し、『安政の大獄』で命を落としました。この二人は、ともに『考える人』です。そして、その考えを『実行する人、実行できる人』が西郷だったと、私はとらえています。勝がこの言葉を語った当時、すでに左内は亡くなっていました。『国家の設計者』としての小楠、『国家の建設者』としての西郷。その存在意義や存在感を、勝はすでに明治維新よりかなり早い段階から見抜いていたのでしょう。それが『恐ろしい人間』という、勝としては最大限の評価となったのだと思います。・・・西郷は勝と初めて会ったときの『驚き入り候人物』という評価を変えることは、基本的にはなかったと思います。互いを認め合ったうえで、深い共感と信頼を置いていました。それが勝と西郷の関係なのです」。

江戸無血開城の深層について。「(1868年)3月9日、江戸城総攻撃の6日前。旧幕臣の山岡鉄舟が駿府の西郷のもとに派遣されます。慶喜が講和交渉のため山岡を遣わしたのですが、旧幕府を仕切る勝のもとに寄ってから勝の書簡を携え、西郷の陣所に赴きます。西郷との交渉を進めようとしますが、西郷から提示された条件は、次のように非常に厳しいものでした。一、慶喜は備前藩預かり。一、江戸城の明け渡し、武器・軍艦の没収。一、徳川家臣の処罰。外様である備前藩に身柄を預けるということは、慶喜の処刑を意味しています。城の明け渡しと武器・軍艦の没収は、事実上、徳川家の取り潰しを意味していたのです。西郷は、これらの条件を旧幕府が飲まないかぎり、江戸の総攻撃を行うという強硬姿勢を崩しませんでした。ここで勝は、思い切った決断を下します。『雑記 瓦解以来会計草稿』という史料が残されています。これは当時の勝が記録していた『会計簿』です。そこには『二百五十(両)』もの『焼討手当』の記述があります。勝は、新政府軍の総攻撃に際し、新門辰五郎といった町火消たちに、江戸の町を焼き払うよう依頼していました。これは、新政府軍が江戸に入るのを見越して、自ら町に火をつけて焼いてしまう、『焦土作戦』にほかなりません。勝は新政府が交渉に応じない場合、海軍力を用いて新政府軍を攻撃するだけでなく、ゲリラ戦の準備までしていたことになります。江戸の町を失うのは、国民全体にとっての大損失です。勝も江戸を戦火から守る使命を帯びていました。にもかかわらず、この作戦は自ら江戸に火をつけて焼いてしまう、恐ろしい作戦です。だからこそ、西郷や新政府に対する『ブラフ』として成り立ったのでしょう」。

江戸総攻撃の2日前に、事態が動きます。薩摩藩の後ろ盾であったイギリスの駐日公使のパークスから、西郷のもとに「徳川が恭順を示している以上、慶喜への厳罰は、国際法上あり得ない」という強硬意見が届きます。勝の用意した江戸の焦土作戦が、イギリスの圧力を引き出したのです。生糸の供給地としてイギリスにとって重要な日本の焦土作戦は、イギリスの国益を損なうからです。

「ここまで準備したうえで、勝は西郷に直談判を持ちかけます。二人は13日にも予備会談を持ちましたが。本格的な会談は翌14日、江戸城総攻撃予定日の前日に薩摩藩邸で実現しました。勝はそれまでの態度を変えず、自分たちは戦う準備ができていると伝え、西郷に交渉に応じるよう迫ります。これに対し、西郷は応えます。『いろいろむつかしい議論もあるでしょうが、私が一身にかけてお引き受けいたします』と。勝の『和戦両様』の構えが功を奏した瞬間でした。その結果、翌日の江戸城総攻撃は中止となります。勝はようやく、「徹底抗戦」という選択肢を捨てることができたのです。ここに至るまでの勝の胆力は、生半可なものではありません。・・・実際に勝に会ったことがある女性が、後年、勝は『全身肝っ玉』のようだったと語っていますが、さもありなんというところです」。相手から譲歩を引き出すための取り引き材料をしっかり準備するという、勝の優れた外交手腕が存分に発揮されたのです。

山岡鉄舟の再評価について。「近年、江戸無血開城に山岡が果たした役割が高く評価されるようになってきました。確かに、西郷・勝会談の前に山岡が西郷と対峙したことで、無血開城へと続く道が開けたことは事実でしょう。山岡は徳川慶喜の直接の命を受けて西郷のもとに赴いたのであって、勝の命で行ったわけではないというのも事実です。山岡は自らの手柄を誇らしげに語るような人物ではなかったので、勝が、いわばその手柄を横取りしたようなかたちになってしまったという事情もあります。ではすべての交渉は山岡がやったので、勝は何もしていないのかというと、そうではないというのが私の考えです。山岡は、西郷のいる駿府に行く前に、勝を訪ねて西郷への紹介状を書いてもらっています。このとき、政治の機能が破綻しかけた江戸城内で、なんとか機能を果たしていたのは、篤姫を除けば、元津山藩主の松平確堂(斉民)と、老中格となっていた勝海舟だけでした。老中格ということは、全権を握っていたわけです。その勝が、『(慶喜の)上意を得ているならば』と山岡の行動を承認し、正式化しているわけです。つまり、『慶喜―山岡ライン』の新政府との交渉を、勝が『追認と正式化』したという関係になるでしょう。ところが勝は後年、あたかも自分が山岡を遣わした、全部おれがやってやったと言わんばかりの口ぶりで当時を回想し、無欲な山岡がそれを否定もしなかったがために、われわれが山岡の果たした役割を過小評価してしまったのだと思います。したがって、江戸無血開城に山岡が果たした役割は正当に評価すべきだと思いますが、それで勝の評価が下がるというものではない。勝の正確さを欠く証言や回想と、勝の評価は切り離して考えるべきなのです。最終的に江戸無血開城を決定したのは、『西郷―山岡会談』でもなく、『西郷―慶喜会談』でもなかった。あくまでも『西郷―勝会談』で決まったということは、この交渉の最終決定権を勝が持っていたという明らかな証拠なのではないでしょうか」。私は、磯田のこの裁定に全面的に賛成です。

「勝の決断によって、江戸の町は残され、幕臣たちの技術や叡智も保存され、その多くは明治という新しい時代に活かされました。明治維新という大きな局面として見たとき、勝の決断は時代を動かす原動力になったといえると思います」