榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

何度も目から鱗が落ちました・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1515)】

【amazon 『二度読んだ本を三度読む』 カスタマーレビュー 2019年6月12日】 情熱的読書人間のないしょ話(1515)

東京・文京の小石川後楽園は、ハナショウブとスイレンが見頃を迎えています。因みに、本日の歩数は16,301でした。

閑話休題、『二度読んだ本を三度読む』(柳広司著、岩波新書)を読んで、何度も目から鱗が落ちました。

例えば、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』を初めとするホームズ・シリーズが120年以上に亘り世界中で読まれ続けている理由が考察されているが、これがなかなか穿っているのです。「見知らぬ他者に囲まれ、日々不安に苛まれていたロンドン市民にとってシャーロック・ホームズの活躍は一条の光明であった。奇怪に思える謎にも美しい回答が存在する。どんな謎も誰かが説明してくれる。少なくとも、そう期待できる。ホームズ・シリーズの人気の秘密はまさにこの点にある。不可解な謎を解き明かしてくれるのであれば、主人公が傍迷惑な性格破綻者であろうが、コカイン常用者であろうが関係ない。むしろ、そのくらい変人の方が頼りになる。無論、常識人の相棒(ドクター・ワトスン)が付いていてくれることが条件だ。・・・私たちはシャーロック・ホームズを希求するのかもしれない。混沌と不条理に満ちたこの世界を、誰もが納得する言葉で解き明かしてくれるヒーローとして」。

『竜馬がゆく』の司馬遼太郎については、司馬の人知れぬ苦悩が指摘されています。「初期の司馬遼太郎は移ろいやすい流行を積極的に取り入れている。だが、『司馬史観』などと読者、マスコミ、果ては学者連中までが言い出したことで、彼の作品や発言が必要以上に大真面目に取り上げられるようになった。地の声を直接読者に聴かせる司馬遼太郎の芸風(作風)では、身を隠すものがなにもない。『司馬史観』などと称され始めたあとの執筆は、裸で高座に上がる心地がしたはずだ。国民的作家などと指さされ、一挙手一投足を注視されている状況ではバカにはなれない。あるのは、必死にバカをやっても周囲が誤解し、『へえ』『さすが』と感心される状況では、小説は書きようがない。司馬遼太郎は晩年、身近な人に『ペンネームを変えれば小説を書けるんだがなあ』と漏らしていたという。彼が小説からエッセイ・対談へと軸足を移していったのは、作品が売れ過ぎたことによる皮肉な結果だった」。

『キング・リア』にはW・シェイクスピアの怨念が籠もっているというのです。「主人公リアの狂気は、作者シェイクスピアの狂気に等しい。本作は『成り上がり者のカラス』『ラテン語も読めない田舎者』(実際には読めた)『何にでも手を出す安手の流行作家』と蔑まれ続けたシェイクスピアが、大学出のインテリどもの鼻っ面に叩きつけた渾身の挑戦状だ。大学出のあんたたちにこの作品が書けるか。頼るものが何もないところで一から作品を書く勇気が、あんたたちにあるのか。シェイクスピアはそのために、本作ではあえて一般受けする得意の決め台詞の多用を避け、観客が容易に納得できるわかりやすい物語にしなかった。当時の『大学出のインテリども』がシェイクスピアの意図を理解できたかどうかは極めて怪しいものだ。が、そんなことは昔も今もよくある話である。かくて作品は書かれ、後世に残された。作者の意図とは関係なく、作品は一人歩きをはじめる。目に見えるものばかりを描いた『ぬるい作り物』に食傷すると『リア王』を読み返したくなる。グロテスクな道化の台詞を口ずさみながら、嵐の向こうに目を凝らしたくなる。愚かさの先にかいま見えるのは、わけのわからぬ不気味さ、一般には狂気と呼ばれる代物だ。これからも折に触れ、本作を繰り返し読み返すことになるのだと思う」。

柳広司という小説家を本書で初めて知ったが、只者ではないと実感しました。