榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

日本で珍重される「井戸茶碗」の朝鮮における出自を、遂に突き止めた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1662)】

【amazon 『井戸茶碗の真実』 カスタマーレビュー 2019年11月4日】 情熱的読書人間のないしょ話(1662)

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閑話休題、『井戸茶碗の真実――いま明かされる日韓陶芸史最大のミステリー』(趙誠主著、多胡吉郎訳、影書房)は、日本で珍重される「井戸茶碗」の出自に鋭く迫った、知的興奮を掻き立てられる一冊です。

「井戸(いど)茶碗は茶碗の王者といわれる。名物茶碗として茶人たちの垂涎の的であることはもとより、高さ9センチたらず、口径15センチあまりという両の掌に収まる茶碗ひとつが、天下堂々、国宝になることもある。もとは海の彼方でつくられた異国渡りの器が、日本の国宝となったのだ。朝鮮から日本へ渡り、茶道にて珍重された茶碗の類いを一般に『高麗茶碗』と呼ぶが、日本の茶人たちは器の特徴から種類分けをし、『井戸茶碗』『蕎麦(そば)茶碗』『斗斗屋(ととや)茶碗』『熊川(こもがい)茶碗』『金海(きんかい)茶碗』その他、姿ぶりや地名にちなんだ固有の名を授けて愛玩した。茶碗の種類に対する名ばかりではなかった。個体としての名品には、『喜左衛門(きざえもん)』『細川(ほそかわ)』『九重(ここのえ)』『蓬莱(ほうらい)』など、由来や印象を語る銘を付与し、名物茶碗への愛着を子々孫々継承してきたのである」。

「日本の茶道にあって高麗茶碗の占める位置は格別なものがあるが、概して器の産地、朝鮮での来歴は定かでない。わけても井戸茶碗は、王者の風格に比例した謎の深さで、産地もつくり手も諸説紛々、日本と朝鮮半島に跨る最大級のミステリーとして、その出自の詮索が推理小説並み(?)のかまびすしさで行われてきたのだった」。

「そのオリジンを巡って、従来は日本の茶人、好事家たちが論争を繰り広げてきたが、近年になって、経済成長をなしとげた韓国も、井戸茶碗のルーツ探しに加わるところとなった。今を遡ること500年あまり、その器が韓国(朝鮮)の地で生まれたものであることは、まぎれもない事実だからである。とりわけ、2005年に韓国の陶芸家、申翰均氏が提唱した井戸茶碗=祭器(祭祀で使う器)説は、韓国から現れた従来とは全く異なる視覚からの新説であり、また現地で陶磁器製作に直接携わる人物からの発言として注目を集めた。しかもこの説が韓国中央博物館館長の鄭良模氏から支持されるに至るや、単なる珍説として扱うわけにはいかなくなってきた」。

実証主義に基づく本書は、この井戸茶碗=祭器説に対する説得力ある反論となっています。訳者が、「著者の趙誠主氏の言を借りれば、申翰均氏を始めとする珍説奇説が横行することになるのは、現代韓国を覆う過剰な民族主義が背景にあるという。隣国の国宝にまでなる器が、原産地の朝鮮にあって、粗末な生活雑器であったはずはないとする民族的自負心が、客観性を曇らせ、井戸茶碗は朝鮮にあった時から特別に貴いもの、名匠の手になる芸術品に違いないと、そのような結論に走ってしまうのだ」と、問題点を指摘しています。

著者の丹念な調査・研究によって、4つのことが明らかになっています。

●製作時期について。「結論的に、井戸茶碗がつくられた時期は、村田珠光が生存していた15世紀末頃と見るのが妥当であるように思う」。

●製作地について。「筆者は(韓国南部の慶尚南道鎮海の)熊川窯址が井戸茶碗の窯址であると信じる」。「(井戸茶碗は)慶尚道の名もない民窯でつくられた軟質白磁の無地の器であった。何も文様がない無地の器であるのは、窯の周辺の庶民を対象としてつくられた器だったことを意味する」。

●製作者について。「井戸茶碗がつくられた朝鮮前期、沙器匠(陶工)たちにとって陶磁器をつくる仕事は、先祖から受け継いだ、拒みようのない「宿業」であった。与えられた環境に順応し、沙器匠としての宿命的な人生を生きるしかなかったのである。とりわけ民窯の沙器匠の生の姿は、彼らがつくる器にそのまま溶け込んで、長い間、器をつくっていても、とりたてて大きく変わる様子もなく、技巧も変化を見出すことはできず、誠心込めて上手につくろうと努力した痕跡も見られない。ただ日々、夢想、無欲の状態で器をつくっていたように見える。それゆえ彼らがつくった器は、沙器匠としての生が投影された素朴な器になるしかなかったろう。しかしこのようにつくられた器が、日本の茶人たちの心を惹きつける茶碗になったのであるから、皮肉と言うしかない」。こういう点に、歴史の面白さを感じるのは私だけでしょうか。

●当時の朝鮮での用途について。「井戸茶碗は、(朝鮮の)庶民たちが儒教式祭祀を始めた時期から約150年あまり前につくられた沙鉢(サバル)だったのである」。「井戸茶碗は祭器でもなく、鉢盂(バル)でもなかった。であるなら、井戸茶碗という器の居場所は自明である。庶民が使う日常的な食生活の容器で、食べ物や飲み物を入れる食器であった」。「当時、窮乏していた庶民の暮らし向きにおいては、井戸茶碗と呼ばれる沙鉢の用途は多様であったろう。飯を盛れば飯碗になり、汁物を盛れば汁碗に、おかずを盛ればおかずの器にもなり、酒を飲む時には、マッコリ碗にもなったことだろう」。地方で陶磁器を焼いた民窯の沙器匠がつくるものは、主として一般庶民が使用する飲食器だったのです。

上質の推理小説を読み終わったかのような充足感が、私の胸を浸しています。