少年の成長物語+少年へのアドヴァイスのケース・スタディ+α・・・【山椒読書論(426)】
『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著、岩波文庫)を33年前に読んだときには、少年時代に読んでおけばよかったと感じたが、今回、久しぶりに読み直してみて、これは大人のための書でもあると気がついた。
主人公は、「コペル君」という綽名を持つ、日本が急速に軍国主義化していった戦前の中学1年生である。2年前に父を亡くし母と暮らしているが、母の弟である「おじさん」が、何かとコペル君の相談に乗ってくれたり、知らない知識の世界への目を開かせてくれる。すなわち、本書は、少年の成長物語であると同時に、少年へのアドヴァイスはどうあるべきかを示すケース・スタディでもあるのだ。
おじさんは、いずれコペル君に読んでもらうつもりで、密かに「Note」を書き続けている。「コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりとすわりこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、じつは、天文学ばかりのことではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることだ。・・・君がおとなになるとわかるけれど、こういう自分中心の考え方を抜け切っているという人は、広い世の中にも、じつにまれなのだ。ことに、損得にかかわることになると、自分をはなれて正しく判断してゆくということは、非常にむずかしいことで、こういうことについてすら、コペルニクスふうの考え方のできる人は、非常に偉い人と言っていい。たいがいの人が、手まえがってな考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、自分につごうのよいことだけを見てゆこうとするものなんだ。・・・きょう君が感じたこと、きょう君が考えた考え方は、ちょうど天動説から地動説にかわったようなものなのだよ」。こうはっきり言われると、私など、恥ずかしい限りである。
「英語や、理科や、算数なら、ぼくでも君に教えることができる。しかし、人間が集まってこの世の中を作り、その中でひとりひとりが、それぞれの自分の一生をしょって生きてゆくということに、どれだけの意味があるのか、どれだけのネウチがあるのか、ということになると、ぼくはもう君に教えることができない。それは、君がだんだんおとなになっていくにしたがって、いや、おとなになってからも、まだまだ勉強して、自分で見つけていかなくてはならないことなのだ。・・・それが、本当の君の思想というものだ。これは、むずかしいことばで言いかえると、常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ、ということなんだが、このことは、コペル君! 本当に大切なことなんだよ。ここにゴマカシがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんなウソになってしまうんだ」。こういうメンターを持てたコペル君は幸せ者である。
「どんなに人まえをとりつくろってみても、自分が友だちをうらぎったという事実は、少しだってかわりません。それは、どこまでもコペル君につきまとって、コペル君の良心をじっと見つめています。コペル君は、もう言いわけを考えなくなりました。ただ、北見君や水谷君や浦川君に対し、本当にすまなかったという気だけが残りました。でも、ただあやまっただけで、はたして三人は、コペル君をゆるして、元どおり仲よくなってくれるでしょうか。――それを思うと、コペル君の心はやっぱり迷わずにいられないのでした」。コペル君は、この最大の危機をどう乗り切り、何を学ぶのか。
この悩みをコペル君から打ち明けられたおじさんのNoteには、「そういう苦しみの中でも、一番ふかくぼくたちの心に突き入り、ぼくたちの目から一番つらい涙をしぼりだすものは、――自分がとりかえしのつかないあやまちを犯してしまったという意識だ。自分の行動をふりかえってみて、損得からではなく、道義の心から、『しまった』と考えるほどつらいことは、おそらくほかにはないだろうと思う。そうだ。自分自身そう認めることは、ほんとうにつらい。だから、たいていの人は、なんとか言いわけを考えて、自分でそう認めまいとする。しかし、コペル君、自分があやまっていた場あいに、それを男らしくみとめ、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけができることなんだよ」と記される。身に沁みるなあ。
「あとがき」で著者が、こう述べている。「日本でも、かたよった国粋主義が盛んになって来て、多くの人がヒットラーやムッソリーニを讃美していました。心ある人々から見れば、それは心配にたえない時勢でした。そして、時勢がこのような方向へ進んでゆくことを心から心配されたからこそ、山本(有三)先生は、『日本少国民文庫』(本書はこのシリーズの第16巻)の刊行を思いたたれたのでした。少しでもこのような時勢の進行を食いとめたい、たとえ、それを抑えることができなくとも、せめて少年たちの無垢の心を、この悪い時代の影響から守りたい、というのが、この双書の計画された根本の趣旨だったのです。・・・最後に太平洋戦争に突入して、日本は惨澹たる敗北をなめることになりました。二百万を越す将兵がそのために死に、数えきれないほど多数の家庭がこの戦争によって破壊されました。そこまでゆかせたくない、と思えばこそ企てた出版でしたのに――」。小児的思考から脱却できない国家指導者とその取り巻きによる軍国主義化・国粋主義化が懸念される今、この意味からも、他ならぬ大人たちが読むべき一冊と言える。