作家、編集者、校正者の誤植、校正ミスを巡る悲喜劇集・・・【情熱の本箱(26)】
ささやかながら文章を書いている私にとって、『誤植読本(増補版)』(高橋輝次編著、ちくま文庫)は、身につまされる本である。仕事上、他人の文章を校正することもあるので、なおさらだ。
「専門の校正者や編集者、新聞の校閲記者はもちろん、物書きや研究者、コピーライター、目録を出している古本屋店主、社内報の担当者、同人誌の編集者に至るまで、およそ活字と縁の深い人々なら、誤植や校正ミスに泣かされたり、恥をかいたり、後悔したりした経験のない者はいないだろう。そんな方々がこのアンソロジーを読んで下されば、思わずニヤリとしたり、同情したり、身につまされたりすること請合いである。おっ、あんたも似たようなことをやってるなぁと、まるで自分の分身を鏡の中に見出したような・・・。それも高名な小説家や学者の失敗をのぞき見るのだから、その快楽もいやますにちがいない」という編者の目的は、十分果たされていると思う。
本書は、誤植や校正ミスを巡る作家、編集者、校正者らのエッセイ集で、その悲喜劇が率直に綴られているが、中でも3人のエッセイが私の印象に強く残った。
1つは、藤田宜永の「校閲者に感謝」である。「編集者の他に、御礼を言いたい人がもうひとりいる。それは校閲者である。原稿と、ゲラと呼ばれる刷り出されたものとを付き合わせ、間違いを探し、あれば訂正するのが役目だが、それだけではない。作者自身の間違い、つまり誤字脱字を探したり、内容に不手際がないか、日時に矛盾がないか等々を細かくチェックするのが校閲者なのだ。これは物凄く神経を使う仕事である」。裏方的存在である校閲者(校正者)に対する藤田の温かい思いが伝わってくる。私の場合も、著者校正で見逃してしまったミスを校正者に教示されたときは、「自分の未熟さに対する後悔」+「広く恥を晒さないで済んだという安堵感」+「校正者への感謝」の気持ちに襲われる。
もう1つは、大岡信の「校正とは交差することと見つけたり」である。マリリン・モンローを追悼する自作の詩の「・・・そしてすべての詩は蒼ざめ すべての涙もろい口は 蒼白な村になって ひそかに窓を濡らさねばならなかった・・・」の「口」が、ゲラで「国」になっていたことがテーマになっている。「私はすぐにこれを『口』に訂正しようとしたが、危機一髪、『国とした方が面白い』ということに気づき、あわてて赤を入れるのを思いとどまったのである。・・・『国』とはずいぶん大げさな、と思う人もいるだろう。しかし私としては、わがいとしのモンローを追悼する以上、そのくらい大きく出ても決して不当ではないとその時感じたのだった。そしてそれが『誤植』という偶発的事象によって与えられたアイディアであったのを、むしろ天の意思とさえ感じたのだった。この感じは今でもおぼえているが、決して誇張ではない。詩人などというものは、要するに天からボタモチが降ってくるのを心ひそかに待っているお乞食さんなのである」。私も、これに似た経験をしたことがある。
3つ目は、長田弘の「苦い指」である。自作の詩の一節、「涙が洗ったきみやぼくの苦い指は」の「苦い」が「若い」と誤植のまま掲載されてしまったことについて語っている。「たかが『苦い指』が『若い指』になっただけじゃないかといくどもおもおうとしたんですけれども、そのときの『若い』わたしには、北海道と九州の位置が上下入れかえられてしまったメルカトル法初等日本地図をみているような『苦い』おもいが、どうしても消せませんでした。あわててわたしは編集部に訂正を申しいれ、友人たちには、『若い指』は『苦い指』のまちがいなんだと、機会をとらえては不名誉な詩の意味を正当に回復すべく、努力したんです」。ところが、どの友人も「若い指」のほうがいいと言うではないか。そして、長田は、「じぶんの詩句の誤植すら新しい展開のきっかけになる」、「『誤植』までも方法として活かせるような、ひとのまちがい、蹉跌を容れられるだけの器量をもたないような言葉は、言葉として死んだ言葉にすぎないんです」という境地にまで達している。ともすると誤植等について編集者とやり合ってしまいがちな私の、戒めとしたい。
本書の奥付では、書名が「増補版(ぞうほばん) 誤植読本(ごしょくどくほん)」となっている。他ならぬ文章に関する本なのだから、「誤植読本(ごしょくとくほん)」としてほしいなあと気になる私は、やはり小物なのだろうか。