『ゴリオ爺さん』こそ、ちまちました私小説とは異質の、真の文学作品だ・・・【情熱の本箱(78)】
私は、学生時代に読んだオノレ・ド・バルザックの『ウジェニー・グランデ』『幻滅』『暗黒事件』『谷間の百合』のせいで、夢見ていた小説家の道を諦めた人間である。
経済的不平等の拡大に警鐘を鳴らし、富の再分配を主張する経済学者、トマ・ピケティが『21世紀の資本』の随所でバルザックの『ゴリオ爺さん』を引用しているのは、バルザックの政治・経済・社会に対する観察眼の鋭さを評価してのことだろう。
私が『ゴリオ爺さん』(オノレ・ド・バルザック著、平岡篤頼訳、新潮文庫)に強く惹きつけられるのは、これがバルザックの長篇、短篇87作品を体系化した壮大な大長篇『人間喜劇』の要となる作品だからである。A作品の登場人物がB作品やC作品に再登場するという「人物再登場」という手法が、全作品を有機的に網の目のように結びつけているのだ。
『ゴリオ爺さん』は、19世紀のパリで財を成した老製麺業者・ゴリオ爺さんが、二人の娘に桁外れの愛情を注ぎ、全財産を与えたというのに、自己中心主義の娘たちから背かれる物語である。社交界で、「あの父親(ゴリオ)は何もかも与えてしまったのよ。20年もの間、はらわたの底まで、愛情のありったけを与えてしまったのよ。あっという間に財産も全部与えてしまって。レモンみたいにしぼりつくしてしまうと、娘たちはしぼりかすを道ばたにほうりだしたってわけよ」と噂されているというのに、ゴリオ本人は、「このわしの命は、ふたりの娘のうちにありますんじゃ。あの子たちが楽しい思いをし、幸せで、きれいな格好をしていれば、絨毯の上を歩くことができれば、わしがどんな服を着ていようと、どんなところで寝ようと、どうだっていいじゃありませんか? あの子たちが暖かくしていればわしも寒くない、あの子たちが笑えば、わしも退屈しませんのじゃ」という溺愛ぶりで、親馬鹿丸出しなのだ。父親の経済力のおかげで、長女は伯爵夫人、次女は男爵夫人になれたというのに、彼女たちの言語道断というべき忘恩の振る舞いはあなたの怒りを掻き立てることだろう。
ゴリオが住む「詩情のない貧困が支配している」安下宿屋の同宿人に、貧乏貴族で田舎から出てきたばかりの法科の学生、ウージェーヌ・ド・ラスティニャックがいる。そして、ヴォ―トランという輪郭のくっきりした個性的な男も同宿している。「頬髯を染めた40がらみの男である。彼は、庶民がよく『あれはたいした男さ!』という類いの人物だった。肩幅が広く、上体がよく発達し、隆々たる筋肉の持主で、分厚い角ばった手の節々には、燃えるような赤毛がふさふさと生い茂っていた。彼の顔は、年のわりに多い皺が刻まれ、冷酷な印象を与えたが、もの柔らかで当りのいい物腰がそれを打消していた。彼の低いだみ声も、荒っぽい陽気さと調和して、けっして不快ではなかった。彼は親切で陽気だった。どこかの錠前の具合が悪かったりすると、すぐに分解し、修理し、油をさし、鑢で削り、またもとどおりに組み立てて、こう言うのだった。『こいつはお手のものでね』。それに彼は、船のこと、海のこと、フランス、外国、商売、人間、事件、法律、ホテル、監獄と、何でも知っていた。誰かがあまり愚痴をこぼしたりすると、彼がすぐに助力を申出た。(下宿の女主人の)ヴォケー夫人や数人の下宿人に、何度も金を貸してやったことがあった。だが借りたほうは、彼に金を返さないくらいなら死んでしまったほうがいいと思うくらいで、ひとのよさそうな様子にもかかわらず、それほど彼は、ある種の底深い、決断力に満ちた視線で、畏怖の念を刻みつけたのである。彼がぺっと唾を吐くその吐き方は、曖昧な状況から脱出するためなら、犯罪の前でもたじろがないにちがいない泰然とした沈着ぶりを告げていた。峻厳な裁判官みたいに、彼の目はあらゆる問題、あらゆる人間の良心、あらゆる感情の奥まで見抜くように見えた」。さすが、バルザック、何とも見事な人間造形である。このように魅力的な人物を好きにならずにおれようか。
社交界の大輪の華であり、遠い親戚に当たるボーセアン子爵夫人が、ウージェーヌに社交界の心得えを伝授する。「出世なさりたいとおっしゃるなら、わたしがお助けします。女の堕落がどんなに底深いものか、男のみじめな虚栄心がどんなに幅広いものか、いずれあなたもおわかりになりますよ。わたしはこの世間という書物をよく読んだつもりでいましたが、それでもまだ、わたしの知らないページがありました。いまはわたしには何もかもわかりました。あなたは冷静に計算なさればなさるほど、出世なさるのですよ。容赦なく打撃を与えなさい、そうすればひとに恐れられます。男も女も、宿駅ごとに乗りつぶして捨ててゆく乗継ぎ馬としてしか、受入れてはいけませんの。そうすることによって、あなたは望みの絶頂に達することができるでしょう。はっきり申上げるけど、あなたに関心をいだく女性がいないかぎり、ここではあなたは物の数にもはいらないのです。若くて、お金持で、上品な、そういう女性があなたに必要なのです。でもあなたがほんとうの愛情を感じたりしたら、それを宝物のように隠しておかなくてはいけません。けっしてそれを感づかれないようにすることです。そうでないと、あなたは破滅です。・・・そうすればあなたにも、世間というものがどういうものか、つまりお人よしとぺてん師の集まりだということがわかるでしょう」。
ボーセアン夫人に煽られ、社交界に華々しく登場し、出世の足がかりを掴みたいと、若者らしい野望をめらめらと燃やすウージェーヌに悪智恵をつけるのがヴォ―トランである。「(君は)財産がほしいのに、一文もない。ヴォケーおばさんのごった煮を食べていて、サン=ジェルマン地区のすばらしい晩餐に憧れている。お粗末なベッドに寝ながら、堂々とした邸宅を持ちたいと願っている。そんな欲望を非難しているってわけじゃない。野心をいだくっていうのは、いいかね、君、誰にもできることじゃないんだ。女たちがどういう男を求めているかきいてみたまえ、野心家さ。野心家ってのは、ほかの人間よりも頑丈な足腰、鉄分を多く含んだ血液、熱い心臓をもっているんだ。そして女っていうのは、自分を強いと感じるとき幸せになり、美しくもなるので、誰にもましてずばぬけて力強い男を選ぶ。たとえ自分が、その男に打砕かれる危険があってもな」。そして、その具体的な進行計画を示した上で、恐るべき陰謀の役割分担を説明し、共に幸運を掴もうと迫るのだ。
平岡篤頼のこなれた訳文は、バルザックが描き出した曼陀羅のような世間を生き生きと再現することに成功している。「この作品の主人公は、実はゴリオでもラスティニャックでもヴォ―トランでもなく、彼らを包んで渦巻いている、パリそのものであると言って差支えない。彼らのドラマはパリでしか成立し得ず、それどころかパリという町の複雑怪奇なありようが否応なしに彼らのドラマを生んだ、というのがこの作品の最も妥当な解釈のようである」という訳者自身による巻末の解説も奥が深い。
本書の中には、ちまちまとした日本の私小説とは全く異質の、スケールの大きな、迫力と意外性に満ちた真の文学の世界が広がっている。