教育の機会均等問題はイギリスに学ぼう・・・【情熱的読書人間のないしょ話(238)】
図書館から、リクウェストの書籍が用意できましたという電話が来ると、いそいそと出かけていきます。リクウェストした本との出会いが楽しみであり、2つの図書館に歩いていくとかなりの歩数が稼げるからです。今日は、分厚い本を読むのに夢中になっていたため、散策に出かけるのが遅くなってしまいました。図書館では幼稚園生ぐらいのかわいい女の子が一所懸命、絵本を読んでいましたが、微笑ましいですね。朧月夜の下では、小さなイルミネーションが瞬いています。因みに、本日の歩数は12,399でした。
閑話休題、『イギリスと日本――その教育と経済』(森嶋道夫著、岩波新書。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)を、大学時代に著者の森嶋道夫の講義を受けたことを懐かしく思い出しながら読みました。
本書は1977年に出版され、著者が、「日本でいま教育問題が大きな社会問題になっていますが、その解決策とまではいかなくても、せめて改善策を見つけるための、一つの資料を提供するという意図で、イギリスの教育についてお話したいと思います」と、その目論見を語っていますが、現在でも十分参考になります。
「イギリスの教育はパブリック・スクールが中心であると、しばしば言われ、すべての人はそう信じております。外国人だけでなく、イギリス人もそう信じております。けれどもパブリック・スクールとは何であるかということになると、法律的に明確な定義はイギリスにはありません。パブリック・スクールはアメリカでは公立校を意味しますが、イギリスでは逆に私立校のことをいいます。いかにイギリス人が天の邪鬼でも、パグリック・スクールを私立校と訳するのは、意訳がすぎますから、おそらく公衆学校と訳すべきでないかと思います」。
「このように一部の親が非常に教育熱心で子どもたちをよい学校にやるために多大の犠牲を支払うのは、他の親が子どもの教育に無頓着であるとするならば、よい学校は教育熱心な階級の人たちによって占領され、それ以外の階級に生れた子どもたちは、よい教育を受ける機会を与えられません。このような教育の機会の不均等は親がつくったのであって、根本的には子どもの意志とは関係ありません。勉強したいという意志を現実に持っているのに(あるいは潜在的に持っているのに)、親が無関心であるために教育を受ける機会にめぐまれない子どもは、まことに可哀そうであります。このような不平等をどうしてなくすかは、すべての近代国家で大問題でありますが、果して子どもに教育の機会を均等に与えることは可能でしょうか」。教育を受ける機会があったか否かで、その子供の将来が影響されてしまうというような状況は、我が国の喫緊の最重要課題として具体的な対応策が練られ、実施されるべきと、私も考えています。
「パブリック・スクールの体系外に、政府は1944年の教育法にもとづく新しい中等教育体系を確立すべく全力を尽し、紆余曲折の後に総合学校と国家検定試験を定着させ、学校差を無効にすることに努めました。こうして、どんな階級に生れ、どんな学校に入学した子どもにも、能力に応じた未来がひらかれるようになりました。階層間の風通しをよくし、階級制を無効にするには、公正な中等教育機構を整備し、学校で人材を養成して、親の階級に関係なく、適切な部署に人々を配置しなければなりません。第二次大戦後、そのような平和革命が、イギリスでおこりつつあると考えるべきでありましょう」。
教育以外では、夏目漱石に関する興味深い言及が印象に残りました。「高等遊民の哲学は、漱石の完全な独創ではないと思います。おそらく彼は、イギリス留学中にこのようなタイプの人たちに会い、高等遊民の世界をイギリスの社会の中に見て、そういう理想郷を小説の中に築いたのではないでしょうか。事実、漱石は留学中、クレイグ先生の個人指導を毎週受けておりましたが、クレイグ先生はどこにも勤めていない理想的な英国型高等遊民でありました。クレイグ先生は『三四郎』の広田先生や『我輩は猫である』の苦沙弥のある部分の原型と見られます。はじめのうち漱石は、どこの大学の先生でもないクレイグ氏の偉さをはかりかねて、彼をどう処遇したらよいかわからず、また彼のエクセントリックな振舞に抵抗すら感じたようですが、時がたつにしたがって彼の人柄に魅せられて、ついには彼の家に下宿させくれと願い出ています。・・・漱石の小説において高等遊民的主人公たちは、イギリスのリアリティを日本的環境で再現するために漱石が考案したものだと私は考えます」。