君の人生は、君の好き勝手に生きていいのだ・・・【MRのための読書論(123)】
高倉健を称える詩
「それが高倉健という男ではないのか」という、丸山健二の長い詩がある。その一節はこうだ。「三年前にはやれなかったことが、今は簡単にやってのけられる。そんな男は少ない。流れに身を任せることを知っていて、ときには流されもするが、しかしそれでも頭は常に上流へ向けられ、両手はのべつ水をかき、両足はしょっちゅう水を蹴っている。つまり、エネルギーの配分を冷静に計算しながら、少しでも前進しようと狙っている。彼は決して溺れない。それが高倉健ではないのか」。高倉健の仕事観・人生観が的確に捉えられている詩だが、同時に、丸山自身の生き方もくっきりと刻み付けられている。
衝撃的な人生論
『人生なんてくそくらえ』(丸山健二著、朝日新聞出版)は、この書に若い時に出会っていたら、私は全く異なった人生を送っていただろうと思わせるほど衝撃的かつ過激である。生ぬるい凡百の人生論など足下にも及ばぬ屹立ぶりである。本来、若者向けに書かれたものだろうが、年齢、性別を問わず、読む者にぐいぐいと覚悟を迫ってくる。火を噴いているかのような激烈さで。
君の人生だぞ
「誰しもが等しく潜在的に持っているさまざまな能力を自分自身で発見することは、おのれの人生を存分に充実させるために欠かせない、必須の条件だ。それができるかどうか、あるいは、それを捜す気持ちがあるかどうかによって、生のための生になるか、死のための生になるかがくっきりと分かれる」。「自分のなかにどんな宝が眠っているのかは誰にもわからない。自分自身にもわからない。そして、宝がひとつとは限らない。本当は幾つも秘められているのかもしれないのだ。だが、ひとつでも発見できたら大したものだ」。「無敵の武器としての大きな目的を持とうとせず、誰も愛さず、誰も憎まず、卑屈な信条と小賢しい思慮分別にすがって目先の我欲に生きる者は、おのれの寿命を数えるだけの一生を送るしかない」。「(大きな目的のための)才能をどこまでも自力とたゆまざる刻苦勉励によって育み、没頭と集中を深め、少しずつでも確実にその核心に近づいていることが自覚されたとき、あれほどまでに執拗に付きまとっていた、抜き差しがたい孤独に憎悪の念を抱くことがなくなり、途方もない喜びの泉を得たことに気づく」。「自分の人生を生きるのに誰に遠慮が要るものか。そうした居直りと開き直りを武器として、その始まりからして道理に合わない、矛盾だらけのこの世を思う存分に生きることの醍醐味を存分に堪能するがいい。躍動感あふれるその生き方に向かって突撃する際の雄叫びの言葉は、これ以外にない。『人生なんてくそくらえ!』」。全く同感である。
国家の正体
透徹した著者の目は、国家の正体を鋭く看破している。「実は、独裁国家はむろんのこと、ほとんど理想的な民主主義国家においても、その国は不特定多数の人々のものなのではなく、特定少数の連中のものなのだ。ほんのひと握りの、生身の人間の所有物なのだ」。「国家を本当に操れる実力者たちは莫大な収益を背景にし、あり余る資金を悪用して、目先の欲に溺れがちな政治家や役人を最大限に利用する。学者や、マスコミや、文化人や、芸能人や、評論家といった、多少なりとも社会への影響力を持っている人種に、ありとあらゆる名目で金をばら撒き、世論を安定させ、自分たちにとって極めて都合のいい形の国家を保ち、意のままに国家をまとめ上げ、巨大な利権を貪り、つまり、税金を堂々とくすね、国家を私物化、もしくは半私物化し、あくまで個人的な、どこまでも私的な王国を築きあげ、『美味しい立場』を揺るぎないものに固め、栄誉と栄光を一族の後継者に引き継いでゆく」。「食べて、飲んで、着ることができて、住むことができているあいだは、国民のあいだに渦巻く慢性的な憤懣が爆発することはない。かれらの如何ともしがたい苛立ちが反逆の精神を芽生えさせることはけっしてなく、ましてや暴動のたぐいなど発生するわけがないという、そんな確信をしっかりと得ている支配層は、大震災や重大な原発事故に見舞われても羊のごとくおとなしく振る舞いつづけた国民を目の当たりにして、ますます意を強め、改めて安堵のため息を漏らしたに違いない」。ああ、情けなや日本人。
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